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詩人たちの島

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June 21, 2007
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カテゴリ:essay
今日のnhkの「クローズアップ現代」は、国谷さんが沖縄の平和の礎に行き、そこで例の教科書検定で削除された「日本軍の強制」による沖縄住民の「集団自決」をめぐる沖縄からの反響のレポートだった。

沖縄県史の編纂者の一人でもある大城さんへのインタビューをもとに、番組は進められる。この大城さんという人の明晰で力強い発言に感動した。この削除が「殉国美談」を創ろうとするものであること、このことは沖縄だけの問題ではなく、「軍」を創設することで、どこにでも沖縄が経験したような、軍と住民との支配―被支配のような関係を再度つくりだそうということ、そういう動きにほかならない。自ら肉親を殺したものは一生、加害者として自らを責め続けている、でもその加害の行為は、当時の国と軍の加害に他ならず、自らの手で肉親を殺めた彼は被害者にほかならない、この苦渋の生と、それからの反転を静かな怒りをこめて語るのは金城重明さんである。

検定に当たる文科省の係官は、教科書の執筆者にむかって、最近の研究書でも「強制したという事実はないというのが、基本的な認識になっています」と語ったらしい。そこで「では、日本軍が手榴弾を与えたという表現はいいですか」と訊くと、「それは結構です」と答えたというのである。つまり、彼らは日本軍と強制というこのつながりだけは削除しようというもくろみだったということが、よくわかる。この研究書はその書名もあげられていて、それを書いた若手の大学の先生へのインタビューもあったが、彼はあきれていた。彼の書の結論は端的に「強制」ということを明示していて、係官が示したのはその結論にいたるまでの例外的な記述に過ぎなかったのである(ここのところは不正確、しかし笑えたのはこの係官があげたのが、大月出版の本だったということ、彼はこういいたかったのだろう、ほら、あなたたちのグループの人でさえ、こう言っていますよと)。

先の大城さんは、国谷さんの初歩的な質問に答えて、「強制を裏付ける証拠となるような文書が残っているなんて、ありえないですよ。日本軍は口頭で命令したのです。そんな文書を残すはずはありません、それに鬼畜米兵という教育は骨の髄までされていたのです。手榴弾を渡すということは、それで死ねということで、それを強制といわず、なんというのですか、一番の事実は、日本軍がいた島だけに、この集団自決ということが起こったのです」。

沖縄の町村議会のうち、ほとんどの議会が、この「強制」の強制的削除に対する反対決議を与野党のほとんど全員一致であげているという。62年の歳月を沈黙のなかで耐えてきた集団自決の生き残りの人々の胸をえぐるような「削除」であり、土足でそこに踏み込み傍若無人にふるまったかつての日本軍のような「削除」にほかならないことをだれもが分かっているからだ。

話は変わるが、最近の新聞記事はどれを読んでも嫌なことばかりだ。でも、今日の朝日の吉田秀和の「音楽展望」。この人の今も持ちこたえている情熱と失うことのない新鮮な驚きのすごさに圧倒されてしまう。吉田は新聞を読むのが億劫になってきたというが、それでも加藤周一のコラムを読む喜びについて述べている。次のように加藤の書くものを彼はまとめている。
― 彼は、特に近年は、世の流れに逆らっても、信じるところを主張する。彼は常に知の限りをつくして「理」を説く。‥私が特に感心するのは、彼がおよそものごとの成り行きは「理に即して動く」と信じている点である。古人は「不義にして富むのは浮雲と同じだ」といったが、加藤さんは、それを倫理の上だけでなく、ごく少数の例外を除いて、何か物事を判断するときに適用する。どんなに願わしいこと、好ましいことも、例えば不老不死とか、理に背いたものは現実によって無効性を証明される。

 背理反理は結局、浮雲のごときものなのだ。とあれば、力を尽くして理にかなった道を行くべきなのだ。その道はどこにあるか。彼は全霊全力を尽くして考えつめ、読者に語りかけてやまない。近年は特に日本が再び希望的背理の道に陥らないよう、論理の手を尽くして、でもユーモアを失わないで、考え、説いて倦まない。それはもう戦いの姿勢。私はそれに打たれる。――

この文章の若々しさ。措辞の絶妙さ。近年の権力が「再び希望的背理の道」を模索しているという指摘は加藤の考えはさりながら、吉田秀和の考えでもあろう。この「希望的背理」という言葉はとくにそうである。なんという的確な指摘だろう。

私には古い知識人たちの生き残りとして彼らを葬りさることはとてもできない。様々なリアルの相があり、セカンドライフなるヴァーチャル空間で実際に金を稼ぐ人もいる。それにも幾分かの、いや現代のリアリティを生きているのだというもっと大きな「理」があるのかもしれない。この「理」が不合理でわけのわからないものに見えるのは私の側の非理
、頑迷にすぎないかもしれない。

 吉田秀和は「理」のあるものは再びよみがえるという。たとえばラン・ランの弾くベートーヴェンの第4協奏曲は「普通なら堂々たる威容を見せるこの名曲が、彼の敏感でよく走る指の下では、軽くたおやかに流れゆく春の風みたいな優美な音楽と化してしまう。」
ところがギーゼギングもそうだった。「軽くて明るく爽やかだった」。ラン・ランは中国育ち、彼が「ギーゼギングの例を知っての上で、こういうベートーヴェンを聴かせたとは想像しにくい。…ギーゼギングのしたことに理があり、ラン・ランで蘇ったのである。理のあるものは新しく美しい」。これが吉田秀和の結論である。

私が言いたいのは、沖縄の渡嘉敷島や座間味島などの「集団自決」をめぐる論議、そして「教科書」検定というくだらない強制、それらをふくめて、「理」はどこに、だれに、あるのかということであった。





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Last updated  June 21, 2007 10:20:18 PM
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