昨晩の吉田秀和の特集番組を観ていて、この人のあふれ出る「生」への歓びを感じて、幸福な時間を過ごすことができた。年齢なんて、全然関係がない。加齢に反比例して、こんなにも若く、つややかな感受性を今でも保ち続ける人が存在するということだけで、大きな励ましになった。インタビユアーの若い作家の方が年寄りに見えるという逆説。
吉田秀和は83年にホロビッツが初来日して演奏したとき、「ひび割れた骨董」という名言で彼の演奏を評したが、それに反して、この95歳になった人物の精神の光はどこから生まれるものだろうか?そのスタイル、その倦むことのない書くことへの初心を忘れない情熱、すべてが稀有なるものだ。
倉田さんが、芭蕉の偉大さを、その時代の文化の存在とともにあるものだと書いてくれたが、吉田はその余光を決して食いつぶすことなく身を削るようにして、このクニの文化の水準をもっと上げようと苦闘して来た人であろう(苦闘のそぶりなど、彼は少しも見せないが)。「美しい国」などとほざいて、すべてを破壊するような若い政治家たちとは当然のことながら全く異なる「理」と「情」の働き方がここには確固としてある。そうだからこそ、かれの眼はみずみずしく輝き、バッハとモーツアルトとベートーヴェンにつきるということができるのである。そこから出て、そこに帰る「根」、そういうものを持つ人だ。そして当然ながら、その「根」はこの小さなクニへの鬱陶しく、強制的な「偏愛」とは明瞭に異なるものであるし、またいたずらな卑下でもない。そういう境地へ吉田を導いた昭和初期の知的でインターナショナル!な文化環境といったものを見直してみるのも、「美しいクニ」信奉者たちには必要ではないか。
週一回のラジオでの解説、年4回とかれは言ったような気がするが、音楽展望の批評、これを聴き、読まずにはいられない、ブラボー、秀和!