カテゴリ:書評
片倉城址公園の蓮池。三脚上の高性能のカメラでカワセミの飛来を待つ人々がいつもいる。お年寄りたちのグループがヘルパーさんの介添えで散歩に来ている。梅雨の晴れ間。湿った空気を重く感じながら、大きな木の下のベンチに座り、新井豊美さんの新しい詩集『草花丘陵』を読み終わった。
花々、樹木、湖の水、めぐっては過ぎてゆく土地の記憶、あるいは季節、とくに冬の冷たい切っ先、それらの断片が、この詩集の通奏低音をなすものだ。そこに自らを、あるいは自らのイメージを「石の人」に擬しつつ、振り返ることと、通過すること、割れること、凝固すること、要するに生と死の反復を、音楽のように語り続ける詩人がいる。「語り続ける」というのは正確ではない。廃星の住人のように、あるいは生まれたての赤ん坊のように「呼ぶ」のである。
という卓抜な詩行で始まる「草花丘陵」は、現代の優れた詩人の構想力と技法のすべてを凝集したような長編詩であるが、それらにも増して、「呼び」続け、神話的な宇宙の断片的イメージを浴びつつ「通過」してゆく先に我々を待っているのは、
という終りの連に色濃い「凋落」と「割れた鏡」のイメージ、呆然と立っている影の男のイメージであり、このようなイメージでこの詩を閉じるしかないというのが現代に生きるものにとっての現代詩のあり得べきdecencyであり、倫理でもあるという深い感銘である。
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Last updated
July 5, 2007 01:18:34 PM
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