1992年、現在から15年前、ぼくは武蔵野の保谷高校というところで、2年2組の担任をしていた。このクラスに向けて、ぼくはクラス通信を、「歩行のディスクール」と名づけて全部で55号出したが、以下、1992年の7月6日付けの記事を引用する。「歩行のディスクール21号」の全文。
「我がためと織女(たなばたつめ)のそのやどに織る白たへは織りてけむかも」
「天の川梶の音聞こゆ彦星と織女と今夜(こよひ)逢ふらしも」
「我が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひ行かな彼方人(おちかたひと)に」(わたしが待っていた秋萩が咲いた。今すぐにでも色に染まりに行きたい。向こう岸の人に。)
万葉集の巻十の秋の雑歌(ぞうか)の部立に「七夕」と題された歌群がある。万葉全体で百三十二首の七夕の歌が載せられているが、この巻はその殆どを占めている。
元来は中国の伝説をもとにした「七夕」がなぜこんなに古代の日本人の興味をひき、愛好されたのだろうか?年に一度の星合の夜に、頻繁に会うことのできない恋人たちのランデヴーの歓びや、また来年まで逢えない悲哀を重ねた歌が圧倒的なのは、藤原・奈良時代の歌人たちのこの伝説に寄せる興味・愛好の中心がどこにあったかを語るものだ。
ロマンチックな心の動き自体には時代の違いはない。また、そのころの詩人や歌人にとって、中国は「知」の最前線だったろうから、彼らがこぞってこの伝説を歌にしたのも自分たちの知識を誇ろうとしたスノビズムが多分に要因をなしている。それも現代と同様である。
しかし、彼らの心の奥にはまだ確かにその記憶があり、現代のわれわれにはその残欠もない、古代日本の信仰生活の記憶が、この中国種の伝説をかくもポピュラーにした最大の原因であると言われている。このディスクールにも何回か登場してもらった折口信夫の説だが、以下簡単に紹介してみよう。
昭和二年に発表された「水の女」というタイトルの論文に載っている考え。タナバタツメとは神の来臨を待つ聖なる乙女のことである。村里ではそのような乙女を選び、村外れの川辺にタナと呼ばれる建物を作り、そのなかで神の着物(カムミソ)をハタで織り、神の訪れを待つという習俗・信仰生活があったというのである。「後世には伝説化して水神のいけにえといった型にはいる」このような固有の習俗の記憶があって、いとも自然に中国の伝説と結びついたと折口はいうのである。神聖な禊のための川は天の川(天漢)に、タナバタツメは織女に、神はケンギュウに移行したわけである。
こんなわずらわしい考証はここらで止めて、ぼくらの「七夕」を祝いましょう。明日、ちょうど期末考査の始まりの日と重なってしまったが、きみたちは何を祈りますか?
昔は、生徒たちにむけて、こういうことを書くエネルギーと余裕があったのだと思うと、この15年の経過のなかでの、愚劣きわまりない「教育改革」とか「再生」とかいうもののために、どれだけ、ぼくら現場の平教員たちの生気と余裕が奪われたことか、悲しく思い返さざるをえない。
今日、七夕の短冊、心の短冊に、ぼくが書くのは、昔の思い出にすぎない。