村上春樹が今日のnytimes.comのreview欄に、Jazz Messengerというタイトルで、自らの文学がどれほど大きな影響をJazzから受けたかを書いたエッセイが掲載されていた。今、アメリカでは、彼の最新作ということでAfter Darkが翻訳、発売されているから、それに合わせたものだろう。どこかで読んだような気もするが、訳は彼の小説の殆どの訳者であるJay Rubinのものである。
Practically everything I know about writing, then, I learned from music. It may sound paradoxical to say so, but if I had not been so obsessed with music, I might not have become a novelist. Even now, almost 30 years later, I continue to learn a great deal about writing from good music. My style is deeply influenced by Charlie Parker’s repeated freewheeling riffs, say, as by F.Scott Fitzgerald’s elegantly flowing prose. And I still take the quality of continual self-renewal in Miles Davis’s music as a literary model.
「今でも」彼はジャズに深く影響されていると書いている。絶え間のない「自己革新」をマイルスの音楽から学び、それを文学のモデルとしているというのだが、ここで出ている F.Scott Fitzgeraldの小説、村上はとくに「グレート・ギャツビー」は自分にとって最大の小説であるという。そういえば彼が訳した「グレート・ギャツビー」を買っておきながら読んでいなかったことを思い出した。
この忙しい学期末の時期に、余計なことを思い出したのが、運の尽きであった。やるべき仕事はやらずに、この優雅で退廃的な、第一次大戦後のロストジェネレーションの作品につかまってしまったのである。そのうえ、ペンギン版の原書も昔どこかで安く買ってどこかにしまってあったのを思い出し、それを探し出し、村上訳と対照しながら読むというばかなことをやりだしたのである。今日は4章まで読んだ。語り手の家で、ギャツビーとディジーが運命的な再会を果たす前の章である。ジョーダン・ベイカーというディジーの友人でゴルファーの女性と語り手のニックは観光用の馬車に同乗してセントラルパークを走っている。ベイカーが二人をニックの家で再会させるという話を切り出すのだが、これはギャツビー当人の願いでもある。語り手は、自分の隣のベイカーに惹かれてゆくのを感じる。ギャツビーとディジーのロマンスなどどうでもよくなる。
It was dark now, and as we dipped under a little bridge I put my arm around Jordan’s golden shoulder and drew her toward me and asked her to dinner. Suddenly I wasn’t thinking of Daisy and Gatsby any more, but of this clean, hard, limited person, who dealt in universal scepticism, and who leaned back jauntily just within the circle of my arm. A phrase began to beat in my ears with a sort of heady excitement: ‘There are only the pursued, the pursuing, the busy, and the tired.’
あたりはもう暗くなっていた。馬車が小さな橋の下をくぐるときに、僕はジョーダンの黄金色の肩に腕を回して抱き寄せ、夕食を一緒にしないかと誘った。気がつくともうディジーのことも、ギャツビーのことも頭にはなかった。僕の思いはこのクリーンでひきしまって、いくぶん深みを欠き、懐疑主義を通して世界とかかわる女性だけに向かっていた。彼女は僕の腕の輪がかろうじて届くあたりで、すっと後ろに身をそらせていた。ひとつの文言が、胸の激しい高まりとともに、僕の耳の中で鳴り響き始めた。「追い求めるものと、追い求められるものがいるだけだ。休む暇もないものと、飽いたものがいるだけだ」(村上春樹訳)
二つを比較して、ぼくに言えることは何もないが、翻訳というものは難しいものであるということだけはよく分かる。ここでのニックの耳を打った言葉に、眼がとまった。確かに村上の言うように、F.Scott Fitzgerald’s elegantly flowing proseという感じもする。