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詩人たちの島

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July 18, 2007
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カテゴリ:書評
天変地異に心身がおかしくなっているのか、いやな思いばかりをさせたり、したりする。落ち込んでしまい、大切な会議もあったのだが、運良く出張と重なっていたので、逃げるようにして職場から立ち去った。出張先でも、なかなか普通の状態にもどれず、最悪の日だった。

昔のことを思い出すのはよそうと思っている。今とこれからしかないのだから。それにしても日々の付き合いで、甘えきった顔や当然のようにこちらにサービスを要求して恥じない発言など聞くと、つくづく厭になってしまう。黙って考える、自分の問題として自分で考える、そういうことのできない連中が多すぎる。思いつきで、こちらのことをなにも考えずに言ったり、書いたりするのも同様だ。じっとしていろと言いたい。じっと耐えて勉強せよ、もっと本を読め、つまらない馴れきった携帯などをいじくりまわす暇があったら。

電車のなかで聞こえる、傍若無人なアホな高校生たちのおしゃべりには胃が痛む。
「うちの学校はオール4の子たちだけど、あのバカ高校はオール2、だから喧嘩を売ってきた」というような内容を、私には再現することのできない、最悪の尻上がりアクセントで語っているのは、どこから、だれが見てもオール4とはとうてい信じ難い4人連れの女子高校生であった。

36年、高校という職場に勤めてきて、私は何か重大な錯覚をしていたのかもしれない。悔しいけど、そう思わざるをえない事態に頻繁に遭遇するのである。引退の年になって、今まで自分がやってきたことが、こうも通用しないというのはさびしい限りである。今になって、自分の無力に直面しても、遅すぎるのだが。(こういう話は書きたくもなかったのだが)

四方田犬彦の『先生とわたし』(新潮社)を読み終わった。これは四方田が師事した英文学者、由良君美と作者の関係を、師と弟子という観点から書き綴った評論とも小説ともつかぬものだが、ここから匂うのは、今の私には耐えられないほどの、文化教養的な、「解釈共同体」的なある時代と生への思い入れである。東大アカデミズムの内情を四方田はもちろん批判もしているが、そこでの異端者としての由良「先生」の在りよう自体が結局は、そういうものを補完するに過ぎないものであったのはではないか、と不遜にも私は考える。

神のような先生、最高で最新の「知」の伝達者であり、伝説的なゼミの主宰者であった先生が実は「傷つきやすい、もろい先生」であったのだというイメージを今の著者が抱くようになるまでの経過が克明にたどられる、その経過が四方田と由良のあいだに起こった数々のエピソードを考え直すことで明らかになるというような書き方である。この解明には現在にいたる四方田の生の、とくにかれも師と同様の大学教師という生の経験が、その積み重ねが大いに影響している、自分も由良先生と同様なことを学生や院生に対して、気づかずしてやってきたのではないか、いい面はとにかく、その悪い面も、というような思い。

この書物の終り近い部分に、「間奏曲」という別章をたてて、四方田は「師と弟子」という関係を原理的に考察している。その参照軸として挙げるのが、はじめて日本に翻訳紹介したのが由良先生当人で、由良もこの人をライバルとして考えていたという文芸評論家ジョージ・スタイナーの『師の教え』(ハーヴァード大学出版・これはまだ翻訳されていない、従ってこれからの引用は四方田の訳である)と、山折哲雄の『教えること、裏切られること』(講談社現代新書)の二冊の本の考えである。私は後者、山折の書くものはあることがあってから一切読みたくなくなったので、この本には言及しない。

スタイナーの本の序文を四方田がパラフレーズしている、そこを引用する。


スタイナーは…ミシェル・フーコーの仕事に言及し、教えるという行為が本質的に、人間が織り成す政治関係のなかの実践であると指摘している。師は弟子とは比較にならないほどの心理的、社会的、物理的権力をもった存在として、まず弟子の前に立ちはだかる。彼は弟子を思うがままに褒めたり罰したりできるし、また排除したり昇格させたりすることもできる。師は教育システムのなかで制度的に権威を与えられているとともに、みずからがカリスマでもあって、弟子にむかって約束も脅迫もできる。教育という制度のなかにおいて知を転送することは権力形態のひとつに他ならず、いかにラディカルな教育方式であったとしても、そのかぎりにおいて保守的なイデオロギーを担わざるをえない。ここで問題となるのは、誰が、誰のために、そしていかなる政治目的のもとに教えるのかということである。イオネスコが『授業』において描いてみせたエロティックなヒステリーは、教育という野蛮な権力の戯画であると、スタイナーは説いている。
この前提に基づいて、スタイナーは師と弟子との関係には、基本的に3通りの場合が考えられるという。

師が弟子を心理的に(またときに肉体的に)破壊してしまう場合。(以下略)
第2に、弟子が師に反逆し、逆に師を破滅させてしまう場合。(以下略)
こうした不幸な師弟関係とは逆に、スタイナーが幸福な場合としてあげるのが第3の場合、すなわちひとたび対立し反目したこともある師と弟子とが、長い時間ののちに相互に信頼関係を交わしあい、エロスを交換しあう場合である。この場合、師もまた弟子から多くのことを学び、二人の間には高次元での友情が生まれることになる。



書き写していて、あまり感じないのはなぜか?なにか違うような思いがする。こういうところから、かつての駒場の異才四方田青年の前に現れた由良君美という「先生」との交わりが考察されるというのは、あまりにも「教養主義的」ではないのか、なんかアナクロニズムを感じる。たしかに著者の由良への思いは全体を通して充分に伝わってくるし、その思い自体の誠実さを疑うことはできない。しかし、率直に言って、「師と弟子」という関係性、いやある関係性を「師と弟子」として考察するという孔子教団的な概念から、われわれはもっと遠くまで来てしまったのではないか。

スタイナーも、フーコーを援用しながら、これら保守的で陳腐な3つの類型に陥るとは。もうフーコーで打ち止めという気がする。山折は言わずもがな。

ここまで書いて冒頭にもどる、ぼくの出口なしの四苦八苦もそれなりに意味があると自分をなぐさめてみたい。








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Last updated  July 18, 2007 10:16:35 PM
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