カテゴリ:essay
1968年の8月、国立にあった名画座めいた映画館(もちろん今は跡形もない)で、映画の終わったあとの掃除と、たまにはモギリの仕事や、フィルムを配給会社から運んだり、届けたりというアルバイトをしていた。住み込みで、映写室の隣の三畳くらいの部屋がぼくに与えられていた。一月8千円ぐらいもらったと思う。大学の2年のころだ。友人を裏からこっそり入れて映画を見せたこともある。朝のラジオで、「プラハの春」がいとも容易にソ連に管理されたワルシャワ条約機構軍によって弾圧されたということを聴いた。ぼくにとっての68年の思い出の一つである。
(すが)秀実の『1968年』(ちくま新書)を読み終わったが、この人自身はどういうことを、その当時やっていたのだろうか?ここには鋭い観察や解釈が綺羅星のごとく展開されている。(でも自分のことは触れていない。)たとえば、吉本隆明の『転向論』(58年)には、先日死亡した日本共産党の前議長、宮本顕治の「非転向」は「無効」であるという断罪がある。それは、「日本封建制」への「屈服」である転向と同様にそれへの「無関心」である限りにおいて同型にすぎないという有名な定義があるが、これが新左翼へ大きな影響力をもたらしたという指摘、そのことによって、ある意味で「68」年への道が開かれたのだという指摘には、そうかもしれないと思う。 大学の隣に小さなお寺があり、そこに吉本隆明が来て講演をするということがあった。はじめて、ぼくにとって吉本の謦咳に接したときである。あらゆることを、とくにラディカルにみえるすべての作家や思想家を、そのときの吉本は片端から批判した。これも68年のある日である。帰りの道で、興奮冷めやらぬ友人は、ぼくに向かって、「吉本の本をすべて、おれは、今日から読むよ」と語ったものだ。 ところで、(すが)は吉本の考えを認めているのではない。宮本の「非転向」に対して、中野重治の「転向」を、彼の小説『村の家』の読解を通して、吉本は称揚するのだが、この読解に対する疑義を(すが)は提出する。つまり、(すが)によれば、そして、その後の様々な中野重治の新研究を参照すれば、中野も要するに天皇制のサポーターの一人に過ぎなかったのだという見解である。誠実でねばりつよい「民主主義作家」という中野の世評に反してである。そして中野はその晩年まで「非転向」の宮本に負い目を抱き、除名された共産党に再入党する方策を考えていたという情報も加えている。 (すが)のスタンスはどこにあるのか、永久革命を夢見ているアジテーターか、それとも、彼がいう68年以後の、ハートとネグリの『マルチチュード』の一員として陣地線を戦う脱主体化されたものか、それとも68年の宣教師か。それとも、自らの経験を黙して語らぬ、語らないからこそ、語っているのだという、彼が本書で批判しているシニシズムを抱えているものなのか。 いろいろ考えさせられた本ではある。平川さんは全否定している、たぶん平川さんよりもっと若いM.Sさんも疑問を寄せているので、今日は少し弁護してやろうと思って書き始めたが、読後感として残るものは索漠とした思いだけである。しかし、それがぼくの1968年であるということだけは確かなことだが。 (すが)はぼくと同年代だが、若い書き手たちのなかに、類型学的な、予定調和的な評論やエッセイを書く人が多すぎるような気がする、(すが)の書くものも(この一冊しか読んでいないが)、悪く言えば後知恵のようなものである。 酒を飲んで、友人と大乱闘を演じて、映画館の椅子をぶっ壊した。翌日、支配人が「Mさん、泥棒でも入ったのか?」と訊ねたので、ありのままを答えて、そこでぼくはその映画館を首になった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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