カテゴリ:書評
八王子の夏祭りで、花火の音がする。家からは見えないので、近くの公園に出て見てきた。外に出ても蒸し暑さは変わらない、それでも次々と打ち上げられる花火の威勢のよさに、少し気分が晴れる。打ち上げ花火も、ずいぶんモダンな形態を志向しているらしく、星雲を思わせるような宇宙的な図形を描くものなどがあった。すぐに退散する。
今日、義父をデイケアに送り出したあと、久しぶりに、女房と二人で立川に出かけた。昼飯を食べて帰ってきた。立川の山野楽器に立ち寄り、ナクソス版のCD2枚をぼくは買った。一つはギーゼギングがベートーヴェンのコンチェルト4番と5番を演奏したもの。前者の4番は吉田秀和が言及したラン・ランの演奏の先蹤という言葉が記憶にあるのだが、そのときの演奏ではないだろう。39年ザクセン州立管弦楽団、指揮はカール・ベームです。5番の「皇帝」は、なんと1934年で、ウィーン・フィル、指揮はこれまたなんとブルーノ・ワルターという豪華版。 もう一枚は、ぼくにとって珍しいもので、ナクソスはこういうものを出してくれるからうれしいのだが、あのブレヒトの「三文オペラ」の作曲者クルト・ワイルのシンフォニー1、2番と「闇の女」が収録されたもの。これは2004年、ボーンマス交響楽団で指揮はマリン・オールソップという人、全然知らないオケと指揮者。cd二枚で2千円というのは安いと思う。 義父がケア会社の車で戻るのが、4時過ぎだから、それに間に合うことが絶対条件の短時間のデートであった。11時に家を出て3時には帰った。郵便受けに、今井義行さんの新詩集『ライフ』(思潮社)があった。横になって読んでいるうちに少し眠った。しかし10分ぐらいだ、そのあとすべて読み終わる。読み終わったら、興奮した頭を鎮めたくなったので、片倉城址に一人で散歩に行く。そこでいろんなことを考えた、この詩集の読後感を書いてみようとか、それを書くならどういうスタイルで書いたらいいのか、書き始めは?などなど。 1997年に今井義行は『永遠』(1997年・ふらんす堂)を出している。これは彼の初期の詩集といってもいいだろう。「永遠」に大人になれそうもない青年の、自己処罰と自己劇化の混交したエクリチュールの切れ味の鋭さ、激しさは、『ライフ』では抑えられている、あるいは、かつての青年が着地せざるをえなかった現在の「ライフ」の場からする「祈り」として鎮められているとも思える。『永遠』から『ライフ』までの変化をたどることは今井義行論を書くことに他ならないが、その余裕がない。ここでは解説抜きで、新詩集の『ライフ』の冒頭の詩と、『永遠』の冒頭の詩を引用しておく。これは後日のためにするのである。
次は『永遠』の冒頭の詩、
片倉城址のベンチに座ると、上方は緑の海だった。セミが鳴いていた。幾層もの緑をなしている樹木の名を知りたいとも思う。でも緑と、表象するだけで私には充分である、いまだに、それも確かなことだ。しかし、この緑は私の緑、属性なんかではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 28, 2007 11:01:41 PM
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