今朝の3時頃まで、徹夜状態で、頼まれたくだらない仕事をしあげて、約束していたN駅で10時半に原稿とフロッピーを渡した、その人も同じ仕事を同じペースでやったというので疲れきっていた。二人の原稿を20日過ぎにその人がさる所へ持っていくことになっている。私はその日がダメなので、その人に頼んだのだった。二人でアイスコーヒーを飲み、一銭にもなりそうもない、この仕事を呪い、あたふたと別れる。それから私は、あまりにも暑いので一駅のりすごし、八王子までゆき、東急の本屋「ブックファースト」で涼んだ。ここには前は三省堂があったのだが。同じ系列なのだろうか?
そこにゼーバルトの『土星の環』があったから、つい買ってしまった。面白い暗合があったので、すこしビックリした。今朝N駅に行くまで私は電車の中で、岩波文庫、行方昭夫の新訳でサマセット・モームの『サミング・アップ』を読んでいた。次のようなところ、モームが文体について薀蓄を傾けているところで、結構面白いぞという感じで読んでいた。モームはイギリス散文の真骨頂を「簡潔さ」に求める。それを彼はロココ調の美にアナロジーする。それに反してバッロクの華麗さを低く評価し、散文の真髄はロココであり、詩はバロックだというようなことも言う。
華麗な文章にはそれにふさわしい題材が必要とされる。美文調でくだらぬことを書くのは確かに不釣合いである。サー・トマス・ブラウンくらい飾り立てた文体で大成功を収めた作家はいないが、その彼ですら、この不釣合いの陥穽から常に逃れていたわけではなかった。『壷送論こそうろん』の最後の章では、「人間の運命」という題材が言葉のバロック的な華麗さとピッタリ合致しているので、その結果として、ブラウンは英文学史上誰をも凌駕するすぐれた散文を生み出した(―余計なことだが、行方氏は今度、岩波新書で「英文の読み方」というすばらしい本を出されていて、そこで訳出においては結局は日本語としてどれだけこなれているかということがαでありΩなのだ、ということを力説しているが、この日本語訳はその点で言えばおかしくはないか。「誰も凌駕できないすぐれた散文」のほうがこなれていると私は思う―蕃註)
ところが、同じような絢爛たる文体で、自分がいかにして骨壷を発見したかという経緯を述べるときには、効果は少なくとも私にはどうしても適切とは思えない。いわんや、現代作家が、尻の軽い小娘が平凡な青年のベッドに入るか否かというような話を典雅な文章で描写したとしたら、読者がうんざりするのは当然である。
ここを読んでいて、電車の中で、トマス・ブラウンとは何ものなのかなどと無知な私は一瞬考えた、そしてその名と「壷送論」という奇妙なタイトルが無意識のなかにしまわれたのだろう。八王子の駅を降りて、暑熱でクラッとしたが、本屋にかけこみ、冷やかしているうちにゼーバルトにまた出会った。『土星の環』をめくっていると、なんとトマス・ブラウンの話から始まっているのであった。宝くじには当たったことはないが、こういう偶然は一度ではないような思いがする。これも一銭にもならない、しかし、こういうめぐり合いには身銭をきって当然であるという思い込みで人生を渡ってきたのにちがいない。普段よりは時間が取れるとはいえ、夏休みもあと少し、ゼーバルトに入れあげたら、なにもできなくなるぞ、という思いもあるのだが、経済効果万能の世の中で、非経済的な、だからこそ真の贅沢さを味わせてくれるのが捨て難い。貧乏の子沢山で何が悪いというような思いだ。
同居していた息子が6月に引っ越した。部屋の中に、残されていた多くのCDのなかで、私が試聴できそうなものもいくつかあった。今聴いているのは、セゴビアのギター。すばらしい響き。アルベニスの「グラナダ」は名曲ですね。これはアメリカにいる娘のCDだったのだろうか、James Brownのものもある、彼は今年なくなったのか。ハービー・ハンコックのThe New Standardというアルバムもある、これは娘か息子のどちらのものなのか。驚いたのは、ジャンゴ・ラインハルトのフランスのホットクラブでのライブ盤まであったこと。父親がこの人を知る前に娘や息子は承知していたのだなと思う、あるいはまた私がなにか錯覚していて、これは息子に私が貸したCDという可能性もあるのかもしれないが。いや、そんなことはあるまい。