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詩人たちの島

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August 30, 2007
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カテゴリ:essay
今から210年前に、ヘルダーリンは「エーテルに寄せる」という詩を書いている。岩波文庫の「ドイツ名詩選」の訳で、その一節を引いておこう。エーテルとは「古代ギリシアで天空上層の空間に満ちると考えられていた精気、霊気」とのこと。詩人は「父なるエーテルよ」という具合に呼びかける。


おろかしくもわれらはさまよい廻る。空へ昇る支えの棒が
折れてしまった葡萄の蔓の迷いのように、
われらの地の面(ちのも)に横ひろがりに、おお父なるエーテルよ!
地上のさまざまな世界を越えて、いたずらにあなたを求めさまよう。




五泊六日のヴェトナム旅行を終えて、その備忘録のようなものを書きつづけた。まだ、メモして記憶しておきたいこともあるが、八月の熱気の終りとともに興味も薄れてきた。takrankeさんのblogでヘルダーリンの詩が紹介されていた、その詩を読んだ(takrankeさんみたいにドイツ語が読めたらいいのだが)ついでに、他の詩にも眼を移していたら、引用した詩の一節がなぜか心にしみたのである。

旅行中ずっと読んでいた本があった。ゼーバルトの『土星の環』。全然違和感なく、ヴェトナムでも読めたから、この本は本質的に「旅」がテーマなのである、ということに今はっきりと気がついた。イギリス、歴史、記憶の旅がゼーバルトのそれである、私たちのはベトナム観光の旅にすぎなかったとはいえ、未知の土地の風光と移動が喚起するのは、日常を離れて、何か「読む」ことや「書く」こと、「沈思黙考」のうちに「想起」することとどこかよく似ている。そういう点で自らがゼーバルトと同じように歩きながら考えている、想起している、それは深くはないけど、という思いが、『土星の環』のヴェトナムでの読書を私にとって親密なものにしたのである。あるいはゼーバルトがその本の中で想い出している風光や樹木や人物のように自分を考えていたのかもしれない。



ゼーバルトの年長の友人にマイケル・ハムバーガーという作家がいる。彼もイースト・アングリア地方のサフォークはミドルトンという所に居住している。ヒースの丘をさ迷いながら、限りなくゼーバルトと思われる語り手はマイケルの家を訪問する。マイケルがドイツを逃れたのは1933年11月のときで、そのとき9歳半だった。種明かししておくと、マイケルは作家であると同時に、有名なヘルダーリンの英訳者でもある。以下の引用は長いけど、私自身のために抜き出しておこう。




私たちは荒寥とした音もないこの八月について話した。何週間も鳥の影ひとつ見えない、とマイケルが言った。なんだか世界ががらんどうになってしまったみたいだ。すべてが凋落の一歩手前にあって、雑草だけがあいかわらず伸びさかっている。巻きつき植物は潅木を絞め殺し、イラクサの黄色い根はいよいよ地中にはびこり、牛蒡は伸びて人間の頭ひとつ越え、褐色腐れとダニが蔓延し、そればかりか、言葉や文章をやっとの思いで連ねた紙まで、うどん粉病にかかったような手触りがする。何日も何週間もむなしく頭を悩ませ、習慣で書いているのか、自己顕示欲から書いているのか、それともほかに取り柄がないから書くのか、それとも生というものへの不思議の感からか、真実への愛からか、絶望からか憤激からか、問われても答えようがない。書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない。もしかしたらわれわれみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神がこしらえたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。その一方でわれわれは、測りがたさという、じつは生のゆくえを本当にさだめているものをけっしてつかめないことを、ぼんやりと承知はしているのだ。誕生日が二日遅れだからといって、人は一生涯ヘルダーリンの影に寄り添っていくものだろうか。だから繰り返し誘惑に駆られるのだろうか、ヘルダーリンのごとく、古びた外套のように理性を脱ぎ捨ててしまい、手紙や詩に<あなたの卑しいしもべ  スカルダネリ>と署名し、見物にやってきたいけ好かない客を閣下とか陛下とか呼んで遠ざけてしまいたい誘惑に。故国を追われたがゆえに、十五か十六の歳で悲歌の翻訳をはじめるのだろうか。後年、庭先にあった井戸の鉄製ポンプに<1770>の年号が、ヘルダーリンの生年が刻まれていたからといって、サフォーク州のこの家に住み着かなければならぬものだろうか。というのは、近くの島のひとつがパトモスという名前だと聞いたとき、わたしはここに棲みたいと切に思ったのだ、そしてそこの暗い岩屋に近寄ってみたいと。そう、ヘルダーリンがパトモス讃歌を捧げたのは、ホンブルク方伯であり、ホンブルクとは、わたしの母親の旧姓ではなかったか。親和力と照応はいかなる時空をまたぐものなのだろう。別の人間に自身を、自身でなくとも自身の先駆けを見るのは、いかなるゆえんなのだろう。




マイケルと語り手のだれが語っているのか判明でなくなるような「語り」のなかで、書くことに対するシニックな感想が述べられる、まさに、そうだという気持で読んだところ。その後に「測りがたさ、という生のゆくえをさだめているもの」をつかめないという認識、だからこそ、二日遅れの誕生日を同じであると思いこみ、ヘルダーリンに一生ついてゆくのにちがいない。それこそが「生の測りがたさ」であり、その確認は決して苦い後悔ではありえない。

生の測りがたさ、さまよい廻る葡萄の蔓のように、エーテルに見離されて、それゆえ、父なるエーテルを求めて、地の面を廻る、旅。







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Last updated  August 30, 2007 11:36:09 PM
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