カテゴリ:essay
高野五韻さんが、「阿賀に生きる」や「out of place」などのドキュメンタリーの監督だった佐藤真の自殺に触れて、そのblogで書いているのを読んだ。新聞で死亡記事を読んだときから、気になっていた。彼の映画のひとつも見てはいないが、上映の機会があれば、見てみたいと思った。「鬱病」が原因だと報道されていた。高野さんが「人間理解の深さは、その人自身を救わなかったということだろうか。それともこういう形で自らを救ったのだろうか。」と書いているのが、心に残る。
その作品を見てもないし、ましてや、その人の謦咳に接したこともない私には何も言えることはない。ただ、初期の吉本隆明が、思想と実践を媒介するのは「意志と情熱にほかならない。意志と情熱という不明瞭な概念体は、一方において意識作用に連結し、一方には神経組織の原動として自己運動に連結する。かかる意志と情熱との特性が思想と実践とを媒介するのである」と言っているのを思い出した。「意志と情熱」をわれわれは、どこまで持続しうるのか?フーコー流に言うなら、隅々まで張り巡らされた生権力(バイオ・パワー)に抗して、そこから受ける複雑な損傷に抗して、このナイーヴとも思える「意志と情熱」をわれわれは、どこまで持ちこたえることができるのか? 昨晩は、国立で福間さんの第6回目になる「詩のワークショップ」に参加し、その後いつものように友人たちと飲んだくれて帰ったのだが。30名を越える老若男女が参加していた。福間さんは、「出会い」を初回のテーマに選び、われわれ参加者に次のような課題を課した。「初めて会う人に、ある質問をみなさんがそれぞれ作って、訊いて回ってください。たとえば、私は、人間以外にあなたが両親を持つとしたら、何にしますか?です。そういう質問を考えて、参加者同志で尋ね、答えあってください」というものだった。 ぼくは若い女性から「あなたが洋服だったとしたら、あなたは何ですか?」という質問を受けて、眼の前が真っ暗になった。そんなことを考えたことがなかったから、真っ白なワイシャツです、とやっと紙に書いてこたえたのである。本当は、まっさらなふんどし?ですと言えばよかったと後悔したが。こうして、福間さんは、参加者の間の「出会い」を演出したあとに、吉野弘や鈴木志郎康の「出会い」に関する鮮烈な詩を参加者とともに鑑賞したのである。 凝固していた血液と筋肉が流動する、そういう経験。もちろん、こういうことが苦手な人もいて、最後まで質問を考えているうちに時間が過ぎてしまったと話す人もいた。 「孤独」と「出会い」。意識と実践といいかえてもいいのではないか。絶対的な孤独のなかで生まれるものがあり、他者との出会いのなかで生まれるものがある。他者との出会いの中に「孤独」が生まれ、「孤独」のなかに「他者」への希求が生まれる。この断絶と相互連関のなかに、われわれの「意志と情熱」が生まれ、それがまた「孤独」と「出会い」を媒介するのであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[essay] カテゴリの最新記事
|
|