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南北にせよ、東西にせよ(今はないか)、首脳会談なるものが、行われると、いや総じて首脳なる連中の会談なるもののときに、思い出すのは『カラマーゾフの兄弟』で、イワンが展開する「大審問官」という物語詩である。これをあらためて、亀山郁夫の新訳で読み、ちょっと打ちのめされているというと大げさだが、この思考のロシア的な深さとその徹底さに参ってしまった。
奴隷の自由と良心の自由の対立といってもいいかもしれないが、老齢の大審問官の主張は単純である、すなわち、人間の殆どは愚かであり、キリストよ、あなたが迷えるこれらの羊たちに与えた自由(あらゆるとらわれからの)は重荷にすぎない、彼らが求めているのは自由ではなく、平等に与えられるパンである、このパンは彼らが作るのだが、それさえも彼らは平等に分け与えることができないので、われわれに搾取してもらい、それを再び「平等に」分け与えられることを望んでいるのだ、ということだ。人はパンのみによって生きるのだ、あなたの言葉ではないという。鮮明な区別が無言のキリストらしき男との間に引かれる。 もう一人の男は、まあキリストだろう、にこやかな笑みをうかべ、無言のまま、90歳になんなんとする老審問官の、苦悩に満ちた弁明を聴いているだけである。この無言は深く、別の意味で(キリスト教という教えを超えて)、非常に私には恐ろしく思われるのだが、なぜかということはうまく言えない。彼は大審問官が、実は心の奥底で願っているような、反対や批判、あるいはもしかしたら許しさえを彼は求めていたのかもしれないが、それら一切のことばを言わないのである。でも、最後に老人の唇に彼は優しくキスする、最高に有名な部分である。悪魔とともにあらざるをえない、と述べる干からびた、権力者の唇にである。 大審問官のおそろしい言は、いうまでもなく、ロシアにおいて実行された。服従こそが自由であるかのように人々を追い込んだのが、大審問官の考えの徹底化にほかならぬスターリニズムという強制された「宗教」であった。ドストエフスキー描くロシア正教の鬼子のような人物、大審問官にほかならぬ。 それにしても大審問官の次の言葉の射程は深い。
こういう調子でイエスを責めていくのだが、大審問官のイメージは物言わぬイエスのイメージより輻輳したものなっている。私はさきほど彼の主張を「単純」と書いたが、そうなのだが、この老人の姿はもの言わぬイエスの単純さよりも何倍も単純であることで、この声とその弾劾の苦悩によって、実は何倍も複雑なものに変形しているのだということを言いたい。歴史上のスターリンや、その他もろもろの「首脳」などとは比較にならないほど、複雑で多義的で、深い。大審問官は自らを「殉難者」と呼ぶ、彼も荒野にさすらい、悪魔の誘惑を受けたものなのだ、ただし、彼はその誘惑をイエスのように「単純」には否定しなかった。一義的に、パンに言葉を対立させなかった、奇跡を単純に否定しなかった(彼は飛び降りて、死んだかもしれない)、なぜならこれこそ彼の語る羊たちの大好物であることを彼は知っていたから、そして最後に「ひれふして」悪魔を拝んだかもしれない、悪魔が立ち去ったあとに、彼はすぐ舌を出して悪魔を呪える可能性を残したかったから。 様々な想像を誘いながら、小説はえんえんと続いてゆくのだが、それにしても「同志が現れると、割れるような万雷の拍手がおき、大地が震撼した」というような言葉で表象される「同志」「首脳」とは何なのか?きれいに着飾った女性たちが、涙を流しながら、旗を振っている。私は、これも「カラマーゾフ」的なあり方だとは思いつつ、フーン、そんなことあるもんか!とも考えている。そこに出現したのは、大審問官とは似ても似つかぬ、苦悩の色の一つも見えない世襲の首脳である。どこも同じだといえば同じだが。 カラマーゾフを読むことで、まだ終りまでは遠いのだが、そこから触発される考えをときどき書いてみたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 2, 2007 09:57:30 PM
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