カテゴリ:書評
70年代の後期のころ、大岡信が雑誌「ユリイカ」で岡倉天心のことを書いていたのを、興味を持って読んだことがある。その当時は「品格」などという卑しい言葉は流行していなかった。この言葉も地に堕ちたものだが、それは、これと「国家」などが結び付けられ、それに類したタイトルの本がベストセラーになるような時世になったからだ。
授業で扱った問題に岡倉天心の名が引用として出てきたので、久しぶりに「茶の本」を読もうと思ったが、なかったので、桶谷さんの訳した講談社学術文庫版のそれを土曜日に買いに行った。
上の引用は「西洋」に対してものを言っている部分だが、その枠組(東洋vs西洋)を越えて、この主張の「品格」をだれも疑うことはできない。日露戦争後のナショナリズムの高揚の中でこういうことを言えたということは、その後、天心を利用した凡百のナショナリストたちには見えないことだったと私は思う。 読み返してみて、私は岡倉天心という人は、早く生まれすぎたエドワード・サイードというような奇妙な印象を持ったのである。もちろん、天心に根深くある底なしのニヒリズム、美の野放図な賛嘆者という部分はサイードとは異なる部分かもしれない。サイードは天心を読んだのだろうか?単に東洋文化・技芸の「鼓吹者」なら、オリエンタリズムの反転にすぎないだろうが、天心には知の毒と甘さを味わいすぎた人のニヒリズムがあり、むしろ単純な二元論をこえて、美という帝国そのものさえ相対化するような強さを感じさせる。 政治は言わずもがな。 次のようなところ、 ―― 現代の人類の天は事実、富と権力を求めるキュクロプス的巨大な闘争によって粉砕されている。世界は我欲と俗悪の闇の中を手さぐりで歩いている。知識は疚しさの意識によって得られ、博愛は功利のためにおこなわれる。東と西は狂乱の海に翻弄される二匹の竜のごとく、生命の宝玉を取り戻そうとむなしくあがいている。われわれはこの大荒廃を繕うためにふたたびNiuka(注・中国古伝説上の皇帝。天柱が欠けたとき、五色の石を練って修復した、漢字がワープロとして出ないので天心の原文の表記に従う)を必要としている。アバター(注・ヒンドゥー教における地上での神の化身)の出現を待っている。その間に、一服のお茶をすすろうではないか。午後の陽光は竹林を照らし、泉はよろこびに泡立ち、松籟はわが茶釜にきこえる。はかないことを夢み、美しくおろかしいことへの想いに耽ろうではないか。― これが今から百年前に書かれたって?そうだよ。なんと、予言的なんだろう。人類の進化など、ほんとうに微々たるものと思わざるをえない。最高のフレーズだよね、「その間に、一服のお茶をすすろうではないか。午後の陽光は竹林を照らし、泉はよろこびに泡立ち、松籟はわが茶釜にきこえる。はかないことを夢み、美しくおろかしいことへの想いに耽ろうではないか。」とくに「はかないことを夢み、美しくおろかしいことへの想いに耽ろうではないか」というのは最高です。みなさん、どう思いますか?
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Last updated
October 15, 2007 10:53:04 PM
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