カテゴリ:essay
今日は一時間みっちりと、授業を観察された。一学期に一度ある外部委員たちの学校評価の協議会があって、その代表的な委員が、私の授業の見学を希望したのである。こんなことは初めてだった、しかも授業に行く前に、立ち話と言う感じで言われたのである。断ることもできないし、3年生の選択現代文の2時間続きの演習だったが、どうぞということで、座席も指定して、6校時の眠たい授業を見てもらった。
たまたま、その前の時間にセンター試験用の評論と小説の問題を終わってしまったので、私は、今日の朝日新聞に掲載された大江健三郎のコラム「定義集」のコピーを持参していた(このコラムは時々授業で使うから、生徒たちには何の違和感もない)。時間が余れば、という意味で午前中に用意していたのである。いやー、困ったことになったぞ、と内心では思ったが、開き直って、これを読むことにした。 大江の文章は大きく二つに分かれている。そのほとんどは、アメリカ南部のカトリックの女性作家、フラナリー・オコナーの書簡集”The habit of Being”の紹介とそれへの自らの共鳴に当てられていた。そして、最後の小さな段落で、日本の同じカトリックの女流作家が、沖縄、渡嘉敷島の戦跡碑に刻ませた彼女の文章の紹介とそれへの静かで強烈な批判に終わるものであった。その最後の段落を引用してみる。
私はこの「日本のカトリックの女性作家」の文章を今、書き写していて、怒りに震えるのを禁じえないのだが、そういう感想を、授業では語らなかった。そのかわりに、実にわかりにくい言葉で、次のようなことを喋った。 大江さんが、前半でオコナーとともに言っているのは、「生きる」「生存」「存在」という「習慣」の大切さであり、(今では、そのかけがえのない大切さということを補えるのだが、)それをきみが言ったように「自分と向き合うこと」と言い換えてもいい、それを強調しているのだよね。「習慣」という語は、とてもイージーでダルなように響くよね、でもそれを生きてきてはじめて、ぼくらは何かを「越える」、難しい局面を「乗り越える」ことができるということです。 さて、そうして生きてきて、誰でもとてもポレミックな(論争的な)ことに向き合うようね、それを避けてはいけない、そういうときに、「愛」という言葉で「集団自決」という問題を語れるか(ここは言わなかった)ということで、大江さんは、オコナーと「日本のカトリックの女性作家」とを結びつけたのだろうと思うよ。一方では集団自決は愛なんかではない、それは日本軍に強制されたものだという、一方では「愛」のために「力の強い父や兄が弱い母や妹の生命を断った」という。「生きるという習慣」から見れば、どちらが正しいのか、いや、そもそも事実としてはどうなんだ?というようなことを言いたかったのだが、ほとんど言えなかった。しかし、受講者の生徒諸君は、いつものように鼾をかいていた豪傑もいたけど、私の言いたい以上のことを感じてくれているようでもあった。 非常に疲れたというのが、私の感想だけど、「都」の「行政」の人でもないし、正直で率直な批判者でもある(3年間、この人を知っていることになる、その印象から言えば)、今日の「見学者」に対して、私は別になんの遠慮もしなかった。ただ、自らの授業の拙さを、思い知っただけである。 それにしても、「品格」や「犠牲」というドラマに「歴史」を誘惑するのは、ドストエフスキーの大審問官とは明白に異なる「腹の膨れた大審問官気取り」というべきものだろう。 いや、The Habit of Beingを生きたことのない淋しいエリートというべきか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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