陳子昂のことを前に書いたとき、忘れていた有名な詩を思い出した。
登幽州台歌
前不見古人
後不見来者
念天地之悠悠
獨愴然而涕下
前に古人を見ず
後に来者を見ず
天地の悠々たるを念ひ
独り愴然として涕(なみだ)下る
大昔の高校時代に習ったのか、それともいつかの授業ですっとばすような感じで読んだのか。なぜか急にしみじみと心にしみいるように思い出されたのである。前後というのは、詩人が登っている幽州台から見はるかす空間であるとともに時間でもあろう。よくある天地の悠久さに対比しての人生の有限と孤独の悲しみがモチーフといえばそれまでだが、むりに、ありふれた感情と片付ける必要はない。
私は今の自分が、こういう詩に反応すること自体を自ら面白いと思うだけだ。それだけ、ということ、付加しないということ。それ以上に、疲れたのかもしれない。言わなくともいいことは、考えなくともいいことより、はるかに多すぎる。考えを誘い出すためには、言わなくてもいいことを遮断できるかどうかに関係するのかもしれない。
久しぶりに息子と会食しようということで、女房と二人で立川に出て驚いた。駅の様子が一変していたのだ。「駅ナカ」というのか、線路の上に、改札を出ないでもあらゆる買い物ができる、洒落た商店街が出現していたのである。立川の古くからある地元の商店街の打撃を想像するとともに、この便利さときれいさにはだれもが魅かれるだろうとも思う。そこの本屋を覗いたが、洗練された品揃え、まさに、「知」そのものを「商品」として、徹底して売り出していこうとする気配に圧倒された。渋沢龍彦、村上春樹、ビートニク特集の雑誌、ブコウスキーまである、老いて元気な吉本の写真がカバーを飾る雑誌、、川上なんとか、小川なんとか、伊那谷の「和製」老子の「求めない」の平積み、しぶい美術書、クレーの画集、などなど。こういうものを青梅線の人々は読むのだろう。この本屋とカフェの合体した店の行く末を私は楽しみにしている。もちろん、成功を祈るが。