書評に行き詰まっている最中だが、先日送られてきたtab7号の木村和史のエッセイ「普通の人」を読んでいて、書評に難渋している自分が笑われているような気になるとともに、木村の書くエッセイの文の、こう名づけたいのだが、「小さなゆらぎ」をゆったりとした波長で伝える独得さというものに、いつものように引き込まれている。このユニークさは、評論書や思想書などでの人名の羅列や引用のむやみなくり返しとは無縁な清潔なたたずまいにある。すくなくとも、この文の構えは他に類のないもので、それは木村の長年の修練のたまものなのだが、そういうことを一切感じさせないところが彼の文体の天性の強さとしなやかさである。
彼の「気持ち」の捉え方は、そこに全精力がかけられている、いわば思想のようなものであるから、その齟齬から発する「小さな異和」が、彼の全エッセイの根にあるモチーフだと言っても言いすぎにはならないと思う。しかし、その異和がどのような文を紡ぎだすかが面白いのであって、私には彼がそこで出した「主張」や「結論」は、ときにどうでもいいような気になる。私が読んでいるのは、類い稀な「文」であって、ときには奇跡的といってもいい、すばらしい「文」であって、その文の生きて動くありさまが私を引きつけて止まないのである。生活が流れてゆく、体が動いてゆく、気持が動き出し、消えてゆく。その「現場」の一見静かに見える報告。一見というのが、曲者であって、その静かに見える「文」のうねりが打ちよせる岸辺は、この現実や「現場」をはるかに越えたものになっているというのが、木村和史の文章が私にひき起こす感慨である。
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