カテゴリ:essay
昨日は福間さんの、詩のワークショップの最終日だった。全七回だった思うが、私は途中の三回、都合がつかず行けなかった。最終日は今までの講座の概括と実作への批評が福間さんからあった。出会う他者や時間や夢が一枚岩のものであるはずもないが、詩がそれらをどう扱い、どう生きていくのか、貴重な話だった。そのあとは3名のチームで作った連詩をそれぞれが朗読し、それに対しての感想を述べ合って終わった。
その後は飲み会に流れた。二次会の店に、徳之島のラム酒「るりかけす」が置いてあったのには驚いた。福間さんや藤井さんは、私よりも先にこの酒を知り、飲んでいたのであった。私もダブルで三杯、これを飲んだ。一次会のロージナでワインを飲んだのが悪かったのか、調子が悪くなり、三次会には参加しなかった。ワインは私には合わないようである。 さて、詩とは何か?そしてなぜ詩を書くのか?こういう問は、詩を書いているものにとって一番答えたくないものであるが、そういうことを考えた。石ころにぶつかるようにぶつかったのだと、北川透さんはどこかで発言していたが、そういうものかもしれない。私はどう答えるだろうか。生きている時間や、生きているが死んでいるような不条理や、要するに生の「態度」といったようなものを、象徴的にか、寓話的にか、あるいは写実的にでもいいが、どこかで確かめたくなるように強いられているのが人間であるとしたら、そういう「強いられ」をひとまず受けてみるしかないだろう、その手段であり方法が、私の場合、「詩」というものかしれない、などと考えてみた。書かれたものによって、その「強いられ」が自発的な愉悦に変換されることもあるにちがいない。「希望」が生まれる瞬間が定着されるかもしれない。なにか、未知のものに、あるいは決定的なものに、触れる瞬間が、書くことによってもたらされるかもしれない。 快晴の冬空の下、久しぶりに湯殿川沿いを一時間ほど歩いた。空を刺すケヤキの大木。鴨たち、城址公園の冬さびた池。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 9, 2007 09:18:42 PM
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