何故だか、最近英語を読みたくなって、カーヴァーのものを読み直し(ほとんど初めてのようなものだが)ている。今日は、彼の文学修行中の最も苦しい時期の思い出が書かれている”Fires”というエッセイを三分の一ほど読んだ。弱い語学力がもどかしい。20代前に彼は結婚して、もう子どもがいた。フラナリー・オコーナーが、作家にとってためになる経験はすべて20代前のもので充分であると言ったらしいが、カーヴァーはそれに異を唱えて、自分にとっては20代以後の経験しか思い出せないし、それが自分に大きな影響を与えたのだと言う。ろくに椅子もないような貧乏な生活だった。ガキたちが影響を与えないような自分だけの空間はなかったとも書いている。日本のある時期の私小説作家、葛西善蔵などを想起させるアメリカ版のすさまじい貧困生活が述べられていた。しかし、葛西などと決定的に違うのは、荒涼とした風景の中に一人で立ってひるまない孤独の強さである。人と自己を「他者」として見据える強さであった。そして、その「他者」に寄せる比類のない眼である。カーヴァーは徹底した短編作家である。彼は長編や実験的な小説は読めないとまで言っている。詩を書くように小説を書くのだと言う。ということは小説を書くように詩も書いたということと等しい。ある一瞥、ある会話、そこから彼の短編も詩も始まる。一つの会話、一つの動作をちらっと見る、それが始まりなのだ。
倉田良成、阿部嘉昭さんと、思いがけない形で連句(倉田師匠の捌き)が始まった。これは今年最初の私にとっての「文学的事件」であり、楽しみである。阿部さんという真摯で、しかも大きな「文学的」Chaosとの出会い。
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