カテゴリ:essay
今週は辛かった。その辛いなかでも、連句が始まったのが唯一の救いである。机上は獺祭書屋状態になっているが、解酲子、樫男のお二人についていくのは楽しみである。「なにぬねの?」というSNS上でやっているが、完成した暁には、御連衆の許可の上で、ここにも掲載しようと思う。
一月の詩は、マリアン・ムーアというアメリカの女性詩人の、その名もPoetryという詩である。詩について考えていると、この詩人の有名な定義、詩の定義を思い出した。それが、ここに載せた詩にある。岩波の「アメリカ名詩選」にあるから、興味のある方はその訳を参照しながら考えてください。軽妙に見えながら、考えさせられる詩である。そのサワリの部分を同書の訳で確認しておこう。 ――われわれの詩人たちが、 「想像力の直訳主義者」となって、傲慢さや軽薄さを乗り越え、われわれの眼の前に 「本物のヒキガエルの棲む架空の庭」を呈示するまで、詩はどこにもない。―― 要するに、詩とは「本物のヒキガエルの棲む架空の庭」を呈示することだとマリアンは定義している。逆に言えば、本物や生ものを扱うことのできる詩人がいなくなり、半端な詩人(half poets)たちの飾り立て詩?しかなくなったということか。 この定義自体は軽妙でもない洒脱でもない、そこにもっていく詩の運びがすばらしく軽い。風のように、冷たくもあり、暖かくもある自然な運びが、ぼくらを連れて行く先は、「想像上の庭」であり、そこには「本物のヒキガエル」が棲んでいるのだ。ここでぎょっと驚くのはぼくだけか。 陰鬱で重たく気が滅入る詩しか書けないぼくにとって、マリアンのこの詩はいろいろ参考になる。 どんな平凡なものでも、詩はそれをrealに見せることができるし、もしかしてgenuineなものにも変貌させることもできるかもしれない。 「本物のヒキガエルのいる想像の庭」。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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