カテゴリ:essay
“Poem in January”としてアップしたマリアン・ムーアの詩の、先日書いた解釈に、平川さんとタクランケさんから、コメントを頂いた。ぼくの解釈も、お二人の解釈も、マリアンに言わせると、どうなるのだろうか?そんなことを考えた。解釈ではなくて、考えだけど。
矛盾するが、「想像の庭」も「本物のヒキガエル」もいないところから始める以外にはない。「想像は死んだ、想像せよ」「本物のヒキガエルは死んだ、ヒキガエルを作れ」ということになるのだろう。これはもちろんアメリカという「伝統」のない「荒野」の詩人であるマリアンにもあてはまることで、マリアンが言っているのも、よく考えてみれば同じことだ。 「詩は」とはと、はじめたとき、あとに続く規定の消滅と、それゆえの苦闘のなかにはじめて「ヒキガエル」はその醜悪な姿を示しだすのだろう。断じてモダンでなければならない、というランボーの言葉は、そういうことと関係する。 「古典詩」、この言葉で、とくに「連句」のことをいうのだが、これは事情がちがう。でも、ここにある「共同性」や「伝統」も、いつまでも固定的なものではありえない。俳諧がはらんでいた初発のエネルギーをなんとかして現代に生かすことを考えずして、巨大な七部集の糟粕を嘗めるだけでいいということにはならない(それを嘗めるだけでも大変なことだが)。こういう「古典詩」の伝統がここにはあるとして、それと今の詩との眼もくらむような断絶はどうだろう。たかだか、70年にも満たない「現代詩」は、その外延と内包を真にどこに連接し、どこと断絶しえたのか? 「古典」詩の伝統も弱い、「現代」詩も弱い。これは何もないより、さらに弱いことではないか。「古典」詩の伝統が弱い、というのは、それに対する新鮮な言及、その「古典」詩をもっと幅広いレンジで捉えうる(たとえば、藤井貞和さんの最近の本などは、東南アジアやアイヌ語を含めて詩の成立を探求する壮大なものだった、そのような)試みこそが、今待たれているのではないか。そういう試みが「古典詩」を強くし、その結果「現代」詩も強くするということにつながらない、とはいえないだろう。 「荒地の恋」も大切な伝統である。同じように、「七部集」や「アイヌ神謡集」「ユーカラ」、「おもろ」も大切な伝統である。これらの「新しい」読み直しが、今こそ必要である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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