先日書いた「末世」という粗雑な文に、多くのコメントをいただき、いろいろと考えさせられた。そのコメントの一つ、一つに対して応えるべきだが、その余裕も知識も私にはない。私のモチーフは、あくまでも、ただ「現場」、それも私が考える「現場」からの発想にあるということだけ。教育の論理とは、内田樹ふうにいえば、私もその通りと思うが、等価交換ではないし、空間化できるものではないということで、それが、あの文の根底にある考えだ。いじられ、いじることは、少しよしたらどうだ、という思い。孔子時代に戻れ、などとは言わないが、もう少し、「時間」を下さい、ゆったりと、豪奢に、実り、腐り、死滅してゆく「時間」の経験を、「現場」で味わいたい、共有したいというモチーフだが、アナクロニズムであることも承知している。
制度や政策について提言しようとして書いたのではない。(これを無責任と言うなかれ)。私の思いは、「こういうイヴェントを拒否できる生徒」の存在ということにつきるかもしれない。「参加する生徒」に対して別段私は反感をもたない。しかし、「拒否できる生徒」を、私は彼が一人であろうとも肯定するつもりである。
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