カテゴリ:書評
今日は、友人の愛好するHart Crane の、MOMENT FUGUEという短い詩を読んでみよう。
最初から、あやしげな雰囲気を感じる。The syphiliticは梅毒患者。彼が売る、あるいはofferしbestowする自然の花々との対比の目覚しさ。Wallace老とは、その対比がまず異なる。そして、その花々の序列が問題である。まずヴァイオレット、デイジー、ヒヤシンス、そして突然ユリ、最後にはバラが、なぜか、越えられるものとしておかれる、という構図。これらの花々が暗喩的であり、シンボリックなものであること。しかし、この詩のなかで、私が眼をとめるのは、like crutches hurtled against glassというようなフレーズだが、わが友よ、これは、卓抜な表現ではないでしょうか?自信はないが、これを日本語で意味を取ると、「ガラスに向って投げつけられた松葉杖のような」ということになるであろうか。そのような眼を、このThe syphiliticは持っているということか。violentなイメージだが、だれもが考えつくことではない。 彼は、heavenから見離されているのであろう、たぶん。だから、売り急ぐのか。あるいは押し売り寸前までいくのか。あるいは捧げるのか、授けるのか。「最後にはバラが、なぜか、越えられるものとしておかれる」と先ほど書いたが、このバラの形容「肉が通過できない」というのはどういう意味だろうか。どんな肉体も越えることのできないバラを越えて、あるいは、その彼方に、無言で罪深くユリを商うしかないということか。 バラがGodやLoveやredemption(贖い)の象徴であるとしたら、ユリは死とresurrection(再生)のそれであろう。しかし、こういう解釈でいいのか。解釈を投げ捨てて、この詩のタイトルを読み直す。「フーガの時」とある。この詩形(視覚的な工夫)と韻律がそれを表すとともに、花々の交換が、異なる声部が、同一の主題をリレーしてゆく、音楽のフーガを思わせる。そういう才気煥発なところもHart Craneの持ち味ではないのだろうか。私の理解は浅すぎて、友人には及ばないが、おどろおどろしいsexual diseaseの男を出しながら、それを美しい花々、それこそ読むものにいかようにも解釈を許す(ように私は思うのだが)花と対比させるところに、Hart Craneの普遍性があるのではないか、などと思った。 (蛇足だが、最後のstanzaのrhymesに触れておくと、eyes―lilies、glass―pass) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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