灰色の現実
昨日の土曜日、拓と二人で、東京経済大学の「21世紀教養プログラム発足記念講演会」を聴きに行った。ノーマ・フィールドと加藤周一の講演だ。ー《教養》の再生のためにーというのがテーマだった。以前ノーマ・フィールドの「天皇の逝く国で」(In the realm of a dying emperor)や彼女がメジャーにしていた源氏物語論、”The Splendor of Longing in the Tale of Genji"などを読み、この特異な経歴の書き手にとても興味を持っていたからだ。進駐軍の軍人と日本人女性の間に生まれた彼女の興味深い自己史の一端は「天皇の逝く国で」のプロローグに述べられている。1947年生まれの彼女とぼくはほぼ同年といってよい。シカゴ大学の教授を勤める彼女の話は、戦闘的と呼んでもいいほど、「現在」のアメリカと日本の政治的な在り方を批判するものだった。佐多稲子の「くれない」を例にとり、佐多がそこで使った日本共産党壊滅後から知識人達の転向へのなだれこみの状況を指す「灰色の現実」という言葉で、現在の日本とアメリカの閉塞感をノーマは共通に括り、指摘したのだった。イラク「戦争」(この戦争は戦争とは呼べない、なぜなら少なくとも対等の軍事力の前提さえないのだから、と彼女は付け加えた)反対の、あの反戦の久しぶりの盛り上がり方から、この急速な冷め方。「灰色の現実」の壁を突き破る方策はあるのだろうか?国立大学の法人化、小学校などの「心のノート」に見られる道徳主義的な教育の締め付け、「他者」への想像力の欠如(もっとも身近な他者、すなわち貧乏人への憎悪、ホームレスへの差別)、これらの否定的な「灰色の現実」のなかで、決してあきらめずに「連帯」への道を模索すること。イタリアの美術史を専攻する同僚の話。政治に無縁なように見えたその同僚が反戦の盛り上がりのとき、ノーマに語ったそうだ。「ノーマ、ゼネストをやればいいじゃない」と。ノーマはアメリカでゼネストの例があったのかなどと驚いた、同僚は「みんなが家から一歩も出ないで、買い物もしない、そういう行動を起こせば、ブッシュ政権も倒れる」と。こういう話は決して政府の政策などを専門とする社会科学系統の同僚からは出ないだろう。たぶん、こういう決意や選択を可能にするのが「教養」の力である。これは加藤周一の講演の論旨でもあったが、要するにテクノロジーと組む科学主義の発想からは決意と選択は生まれないということだ。そこから生まれるのは常に効率と競争だ。教養の無力が叫ばれて久しい。アドルノの「アウシュビッツのあとに詩を書くのは野蛮だ」という有名な言葉を想起するまでもなく、オックスブリッジ的な古典教養がいかに二度の大戦で無効だったかは誰でも知っている。しかし、そのような教養とはことなる現代が必要とする、現在だからこそ必要とする「教養」というものがあるのではないか?ノーマの話を聞いていて、しきりにぼくはそういうことを考えた。彼女が強調したのは驚くほど平凡なことだった。すなわち「選挙」を盛り上げること、「選挙」で戦うこと、身近な差別を排除すること、それらの市民主義的な運動と行動がもしかしたら、ノーマはそう言わなかったが、新しい現代の「教養」として定着すべきなのではなかろうか?ラディカルな「市民運動家」としてのノーマとおそらく日本における最後の教養主義的「知識人」加藤周一の組み合わせは結構それなりに面白かった。あまり二人の話はかみ合うところはなかったけど。最後にノーマは次のようなこと言って講演を閉めた。「正義の奇跡的な到来を待ち望むために、文化教養のための永久革命をわれわれは遂行しなければならない」と。