先日途中で失礼していた「くいだおれ」記事の続きです。
時間が経ちすぎましたので、長くなりますが最初から書きます。
大阪・道頓堀、(株)くいだおれ代表取締役会長・女将
柿木道子(かきのき・みちこ)氏
『道頓堀発「おもてなしの心」 -挑戦と改革-』
「大阪名物 くいだおれ」創業者の次女として生まれた柿木先生。
大学卒業後1年間だけ「くいだおれ」に勤務。18年間の主婦業ののち、
体調思わしくない父(創業者)に懇願されて同社に復職するも、
経営のノウハウを教わる間もなく父他界。以来、シロウトが懸命に
勉強して“流行らぬ大食堂”(ご本人の弁)を再生された体験談でした。
道頓堀は、江戸時代より食べもの屋と芝居小屋のまちとして350年の
歴史があります。昭和24年、戦後の飲食店禁止法解除を待っての開店。
店頭には、子どもにも大人にも親しまれる赤・白・青のチンドン屋の人形を設置。
昭和27年、アメリカからテレビが輸入されると高額にも関わらず3台を購入し
店頭で大衆に披露。ところが、スイッチを入れても画面は真っ黒のまま・・
それもそのはず。まだ実験放送が始まったばかりで、週に1回数時間しか放送が
なかった時代ですから それでも、ひと目テレビというもの見たさに連日
黒山の人だかりだったそうです。
こうして集客を図り食堂は繁盛、開業10年後には8階建てのビルを建て、
総合食堂を作ります。一般庶民の最高の贅沢が「映画を観ること」と
「ご馳走を食べること(外食)」だったころのことです。
その8階建ての総合食堂「くいだおれ」は、日本初の食堂ビルです。
このとき日本で初めて動く看板が登場します。
それが、あのチンドン屋の"くいだおれ人形"です。
「商売繁盛のためには、店の入口を賑やかにしなくてはならない」という
創業者のコンセプトに基づいて考案さ、人が人を呼ぶ効果を期待するものです。
のちに、周辺にはサニーの大好物然り、さまざまな動く看板が登場し現在に至っています。
しかし古き良き時代は永遠には続きません。
昭和45年の大阪万博以後、ファミリーレストラン等の外国から入ってきた
外食産業が盛んになり、専門店も増え、テレビの普及により芝居小屋が
流行らない、すなわち「芝居小屋と食べもの屋」の街・道頓堀が、
衰退していきます。当然、「くいだおれ」の経営も厳しくなります。
(下の記事へ続きます)