入院4日目 前半
お願い、この日記には、どうしても、血やえぐい表現を使わなければなりません。それらが、苦手の人は、読まないで下さい。それでも構わない人や、同じ経験をされた方には、一人でも多くの人に読んでほしいです。2002年7月後半 入院4日目 前半午前、5時、目覚ましがなるより早く、目が覚める。起きた時には、父は、もう病院へ出かけた。休みを貰ったらしい。そうしたら、土日の連休も病院に入れて、月曜までは、ずっと、付き添えるから、そうしたが、後で、退職するきっかけの一つにもなる。なんだか、疲れが取れない。どうにも、気持ちが落ち着かないが、とりあえず体を動かさなければ、ならない。1回目の洗濯物を、干し、2回目の洗濯物を仕掛ける。ワイシャツをクリーニングに出したいが、まだ、やっていない。早く、起きすぎたみたいだ。外の花に水をやる。けっこう重労働。母は、花が、好きで、ベランダ中に花が、ある。大きなバケツに水を入れ、十往復すれば、終わる。ベランダにある、弟の事故当時の血まみれの服が、気になるが、触れない。怖くて、怖くて仕方なかった。しかし、虫が、よってきても困るので、使ってないバケツにいれ、ふたをする。そういえば、ごみを出さなければ、ならない。朝早かったら、誰にも会わないだろうと思い。ごみ出しへ、行く。朝早いのに、おばさんたちが、集まっている。結局、捕まってしまった。色々、弟の事を聞かれ、そのたびに答える。励ましてくれるのは、うれしかった、その都度、お礼を言う。15分位して、やっと、開放された。帰りに掲示板に空き巣注意の張り紙が、何でも、昨日、ベランダ側から、4階まで、登ったらしい。居間で寝ている人に、気づかれずに財布だけを取っていったようだ。もう、今月だけで、何件目だろう。うちのマンションだけでも、5件は、やられているはず。向かい側の被害にあった家から、工事の音が、する。ベランダに鉄格子をはめている。あれでは、布団を干せないが、不安よりは、ましなのかも。我が家も、留守が、多いし、後で補助錠を買うことにした。ごみ出しから、帰ると、けっこう時間が、経っていた。ワイシャツをクリーニングに出しに行かないと。クリーニング屋に行って、ワイシャツを出す、そして、昨日の、ワイシャツを受け取る。それにしても、店に入るのに、十分かかるとは、思わなかった。夏休みだからか、車で来ている人間が、多かった。さあ、やっと、朝食にありつける。一人の食事は、むなしく、音が、響くだけの機械的な行動だった。別においしいとも、楽しいとも感じない。ただ、倒れないためだけにとる、食事、あまり、意味の無いものにも感じられるが、倒れるわけにはいかないので、しっかり食べる。掃除機をかけたいが、時間が無い。アルコールのモップをかける。これを毎日かけていたから、今でも、フローリングが、光っている。部屋の花に水をやると、胡蝶蘭につぼみが、付いている。もうすぐ、咲きそうだ。母が、知ったら、喜ぶだろう。金魚や、熱帯魚にもエサをあげる。あらかた、家事を終えると、買い物に出かける。お店のやっている時間だった。片道15分かけ、坂道を上り下りしながら、駅前の生協まで行く、安いし、いい物を買えるからだ。近くには、大きなディスカウントストアーや小さいけど、十分な品物のあるスーパーが、あるが、あえてそうする。お店に着くと、また、顔なじみに合う。同じマンションの人だ。我が家とは、私が、生まれる前からの付き合いだそうだ。えらいねぇと言われて、少し、照れてしまうが。弟の事が、脳裏に浮かび、気持ちが沈む。早く、病院に行きたかった。そして、弟が、死んでいない事を確かめたかった。3日分の、食料は、重かったが、いつものことだから、気にならなかった。家に付き、買ってきたものを冷蔵庫などに入れると、どっと、汗が、出る。汗を拭いて、2回目の洗濯を干す。干す場所が、無いから、いろいろな方法で、干す。弟の荷物をつめ、後は、シャワーを浴びて出るだけだった。火事になっても、困るから、先に仏壇に線香をあげ、いつものように祈る。『私の命と引き換えに、家族と弟を守って欲しい、私は、弟が、元気な姿を取り戻したら、そっちへ、行きますと』そして、火が、消えるのを確認したら、シャワーを浴びる。疲れて、ウトウトしてしまうが、冷水を頭から、かぶり、強引に目を覚ます。冷たいが、これが、一番効く。シャワーを浴び終わると、体の乾くのもそのままに、着替えや準備をしていく。もう、午後になってしまう。無駄だとは、知りつつも、時間よ止まれ、と祈ってしまう。そして、準備が、整い、戸締りや火の元を確認して、出かける。また、今日は、荷物が、重かった。タオルなどが、多めに入っていたからだ。それでも、まだ、足りない。少し、買い足そうと思い、閉店セールをやっている店へ、まだ、安くて、品質の良いタオルが、あった。いくつか、買って行くことにした。そして、横須賀線へ。今日も、少し、違うルートをたどる。兄が、京成成田より、一つ手前から、行けると言っていたので、試してみる事にした。一駅だが、ちょうど、交通費が、安くなる。何せ、今までの道は、山道で、踏み切りで、電車待っていたら、ハチに追いかけられるし、弁当を買いに行ったら、道に迷い、大回りしてしまうなど、不便が多かった。今度の道に期待しよう。電車の中では、やることも無いので、やはり、弟の事を考える。昨日医師から、言われた言葉を思い出す。検査の結果、右の頭を蹴られた衝撃が、大きく、その反動で、左の脳にもダメージを受けているのが、CT等の検査で、分かったらしい。言葉を司る、左脳をやられると、高い確率で、しゃべれなくなる可能性が、あるといわれた。それ以上に、助かるかどうかさえも、疑問だったが、不思議と助かるように思えたので、今は、気にしないことにした。弱冷房車に乗っていたが、やはり、この冷房にお腹をやられてしまった。何度か、電車のトイレに駆け込む。横須賀線でよかったと、このときは、思うが、今では、横須賀線しかのれずに、非常に困っている。他の車両は、恐怖をともなう。というより、電車や密室、病室を見ると、呼吸が、苦しくなり、パニックになる。そして、自分が、死んでしまうとの恐怖から、様々な問題を引き起こす。このことは、後に書くとして、1時間ちょっとで、船橋駅へ付き、乗り換える。快速電車が、来るまで、その他の電車には、乗らない。結局、待ってでも快速電車に乗ったほうが、早いのだ。駅構内は、蒸し暑くしんどい。座りたかったが、空いていないので、荷物を自分の足の上に載せる。弟の病室に汚いものを持って行きたくなかった。そして、電車が、来る。あっという間に進むが、その時間さえも苦痛だった。弟の病院が、気が狂いそうな距離にある事を実感していた。本当に狂いそうだった。逃げるすべも楽になる方法も無い、途中下車とトイレに行く事を繰り返す。無駄な時間が、流れるのが、悔しかったが、どうしようもない。私には、なす術は、無かった。後で、調べたら、家の駅から、弟の病院のある駅までは、96,7キロあった。自宅から、駅までの距離や、駅から病院までの距離を入れると、限りなく100キロに近かった。車に乗らないから、距離の感覚は、分からないが、ずっと100キロで、走っても1時間かかる距離は、長く感じた。毎日、往復となるとなお更だった。やっと、最後の駅に着き、電車を降りて、駅を出ると。新しい街らしく、きれいになっていた。駅前に、ジャスコが、あった。ここで、パンや昼食、飲み物などを買っていく。一本道らしいので、病院までは、すぐに付きそうだ。陽炎が、登っている。私の心の中に閉ざそうとした光景。でも忘れられない、多分、一生、生きている限りは。暑くて、辛い、何もかもが、奪われた。夏らしかった。ポケットタオルで、拭いても、拭いても、汗が、落ちる。めがねが、曇るし、息が、苦しい。荷物を背負いながら、両手に買い物を持っていく。変な格好だが、しょうがない。別に気にしない。しかし、暑い、アスファルトの照り返しが、キツイ。もともと、色白の肌が、どんどん、太陽に焦がされる。私の肌は、女性よりも白いといわれるくらい、貧弱な色をしていた。すぐに、日焼けをしてします。後で、痛くなりそうだ。15分ほど、歩いて、病院が、見えた。やっと、付く。そして、横断歩道を渡り、病院へと入っていく。 (明日へ、続く)今日は、ここまでにしたいと思います。見づらくてすいません。同じ体験をされた方やこの日記を読んでくれた方は、どんなことでも構いませんから、コメントを下さい。それが、どれだけの力をくれるか分かりません。この日記を書くのは、辛いです。心の奥底に閉ざした記憶と記録を照合する作業は、容赦なく体力を奪います。そんなときに皆さんのコメントにどれだけの力を貰っているか、分かりません。この日記を書き終えるまで、ぜひ、、お力添え下さい。どうか、よろしくお願いします。同じ体験をされた方や、何かを日記に残したい方は、ぜひ、この、命と労災のテーマで、日記を書いてください。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。