『囚われ』という言葉で見えていないもの
「囚われに気づく」「囚われを手放そう」「囚われないこと」というようなことがよく言われます。 多くの人は『囚われ』という言葉を誤解してしまいます。それは見えていないものがあるからですね。 『囚われ』という言葉に対する誤解を解きましょう。 (^^) 『囚われ』とは「こうあるべき」であり、自分の中では正しさのような形で認識されています。その囚われ、正しさに対して見えていないものとは、「基準」です。 自分の考えを基準にしているのか、他人の考えを基準にしているのか、ということです。 自分の考えを基準にしている場合は、自分の考えが変われば、いわゆる囚われ、正しさも変わります。ってことは、自分は囚われの身ではないですよね(^^) ところが、他人の考えを基準にしているときは、自分の考えが変わっても正しさが変わらないんですね。この状態が囚われです。 たとえば、地下鉄にサリンをまくということになったとき、おかしいと思っても、尊氏のいうことが正しいはずだと自分の考えと葛藤になった人がいましたよね?誰かの考え(正しさ)の囚われの身になっているでしょ。 たとえば、父親が「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」という考えを持っていて、幼い頃は、その考えを素直に信じて「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」と考えていて「大きくなったらお嫁さんになる」と言っていた女性がいるとします。 この女性が英語が好きで得意で生きがいを感じ大人になって通訳として働きたいと思った時に、素直に自分の考えを実行できるなら、「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」という考えに囚われていないですね。それまではそれが正しいと思っていけれど、自分の考えが変わったから、正しさもそれに伴って変わったからです。 ところが多くの場合、しつけられていくうちに親の価値観が刷り込まれて「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」という考えが、自分の中で自分の絶対の正しさと感じられるようになることがあります。 いわゆる新興宗教などでよく言われる洗脳状態と同じような状態です。 あたかも自分の考えですが、根っこは、親の価値観、考えですから、自分の気持ちが『働きたい』に変わっても、その考え自体が、正しさに反する「悪いこと」に感じられて葛藤したり、自己嫌悪、罪悪感を抱くことになるんです。 自分の心を傷つけるから、そういう「囚われ」はダメなんですね。 それに対して、自分を基準にした囚われは『こだわり』と私は使い分けています。 自分の意思でこだわっているだけなので、考えが変われば簡単に手放せるもので、囚われていないですからね。(^^) いかがですか?難しいかな?わかりやすかったかな?よかったら、ランキングボタンをよろしくね(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪