カテゴリ:銀輪万葉
(承前)
昼食を済ませて、山の辺の道に戻り、玄賓庵への道を辿る。 (玄賓庵) 大抵はスルーすることの多い玄賓庵であるが、今回は立ち寄る。 桓武天皇や平城上皇の病気平癒を祈願して、桓武天皇、嵯峨天皇の信任が厚かったという平安時代初期の高僧・玄賓僧都(天平6年<734年>~弘仁9年<818年>)が隠棲した庵と伝えられる。現在は真言宗醍醐派に属する寺院。元は桧原谷にあったが、明治初年の神仏分離令によって現在地に移されたという。 世阿弥作の謡曲「三輪」では、玄賓庵に通って来る女性・三輪明神の化身と僧玄賓との交流が描かれている。 ♪三輪の山もと道もなし 三輪の山もと道もなし 檜原の奥を尋ねん さて、我々も桧原への細道を辿ることとしよう。 玄賓庵から桧原神社へは杉木立の中の細い山道となるが、その入口にある滝行をするための小さな滝の前にあるのが、高市皇子の歌碑。 (万葉歌碑・巻2-158) 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (高市皇子 万葉集巻1-158) (山吹が美しく立ち繁っている山中の清水を汲みに行こうと思うけれど、道が分からない。) 写真がピンボケになってしまって分かりにくいが、歌碑の方では第2句は「立ちしげみたる」と訓じている。原文は「立儀足」で「儀」を「よそひ」と訓むか「しげみ」と訓むかの違いである。 この歌は十市皇女が亡くなった時に高市皇子が詠んだ歌3首のうちの1首である。 十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれた娘。天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)の妃となるが、壬申の乱で夫と父親が戦うという悲劇に見舞われ、夫は敗死する。 乱後、異母兄の高市皇子(天武の長男)は自身の屋敷に十市を引き取りその面倒をみたようだが、それが兄妹の関係であったか男女の関係であったかは当事者にしか分からないこと。この歌から二人は結ばれていたと想像する説もある。 因みに、他の2首は以下の通り。 みもろの 三輪の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き(巻1-156) (注)この歌の第3句、4句は未だ解読されていない。 三輪山の 山辺まそ木綿 短木綿 かくのみゆゑに 長くと思ひき(巻1-157) (三輪山の山辺に掛けてある麻で作ったユフは短いユフである。かくも短いものであったのに、その命を長いものと思っていた。) 桧原神社に到着。 巻向の 山辺とよみて 行く水の 水沫のごとし 世の人我は 痛足川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立つらし (<ぬばたまの>夜になって巻向川の瀬音が高い。山からの吹きおろしが激しいのだろうか。) この歌とあしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる(柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1088)とは小生が好きな歌でもある。 箸墓については、下記の過去記事をご参照下さい。 <参考>銀輪万葉・奈良銀輪散歩 2016.4.20. 景行天皇陵の裏に回ると、休憩所らしきものがあって、先客が休んで居られました。 (万葉歌碑・巻10-1816) (<玉かぎる>夕方になったので、<猟人の>弓月が岳に霞がたなびいている。) 日が傾き、辺りの景色は、既に「玉かぎる」夕景色に近付こうとしているようです。 南・山の辺の道銀輪散歩・竹之内環濠集落から奈良興福寺へ 2012.3.30. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[銀輪万葉] カテゴリの最新記事
|
|