カテゴリ:銀輪万葉
昨日(9日)は、来月15日に予定している、ペリカン・ウオークの下見に行って参りました。
ペリカン・ウオークとは小生が勝手に名付けた呼称であるが、馴染みの喫茶店「ペリカンの家」主催のウオークである。 昨年、一昨年とこの喫茶店主催のサイクリングを企画し、これをペリカン・サイクリングと呼んでいるので、そのウオーク版であるから、ペリカン・ウオークでよかろうという命名である。 店主のももの郎女さんから、ウオーク・スタイルでペリカン・サイクリングのようなものを企画してくれないか、との依頼があったのに応えたもの。 距離は極力短く(5~6km程度)、途中に和菓子屋さんのような甘味処があれば「なおよし」という難しい注文。 参加対象者は喫茶店のお客さんや店主のご友人などで、これはペリカン・サイクリングと同様。 集まりやすさ、足の便などを考慮して、大和西大寺駅集合で、5~6km程度のウオークということで設定したのが次のようなコース。 近鉄奈良線・大和西大寺駅前→菓子舗・横田福栄堂→孝謙天皇陵→成務天皇陵→日葉酢媛皇后陵→近鉄京都線・平城駅前経由→山陵八幡神社→神功皇后陵→奈良競輪場前経由→八所御霊神社→秋篠寺→堅牢地神社→大和西大寺駅前 トイレの所在地、昼食場所(お弁当持参で野外で戴く予定)などの確認のための下見というのが、今日のミッション。 下見は、ももの郎女さんもご一緒すると仰るので、午後1時西大寺駅北口待ち合わせで、落ち合うこととした。 午後1時ジャストかちょっと過ぎた位に彼女が到着。午後1時過ぎに駅前を出発。最初に向かったのが菓子舗・横田福栄堂。この店のことなどは小生は勿論存じ上げないのであったが、先の(2月2日)若草読書会の折に、このウオークの話をすると偐山頭火氏が「こんな店がある」とメールでご紹介下さったので、コースに取り入れた次第。 駅から徒歩12~3分、しかし、日曜日は休業日のようで、店は閉まっていました。店の道路向かいには野菜や花などの無人販売所がありましたが、お菓子の代わりにお花か野菜を、という訳にも参らぬから、本番ではこの部分をカットすることに決定。本番の3月15日も日曜日である。 孝謙天皇陵へと向かう。 (孝謙<称徳>天皇陵) 孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后との間に生まれた女性( 阿倍内親王)。 聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた安積親王という男子がいたが、藤原氏を後ろ盾に、男子の安積親王を差し置いて阿倍内親王が皇太子となり、聖武天皇の後を継いで46代・孝謙天皇となる。 彼女は養老2年(718年)の生まれで、大伴家持と同年の生まれであるから、万葉時代の人物である。万葉集にも次のような歌をのこしている。 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり (孝謙天皇 万葉集巻19-4268) (この里は霜が降り続くのでしょうか。私が夏に見た野の草はこのようにすっかり黄葉している。) <参考> この歌碑は西大寺境内にあり、当ブログの下記記事にその写真を掲載している。 大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで 2010.3.5. 母の光明皇太后と藤原仲麻呂の屋敷を訪ねた日に、黄葉せる沢蘭(サワヒヨドリのこと)ひと株を抜き取って、女官の佐々貴山君に持たせ、仲麻呂と陪従の大夫らに、届けさせた歌だという。 この頃は、孝謙天皇と仲麻呂の関係もしっくり行っていたのだろうが、大炊王(47代・淳仁天皇)に譲位し、道鏡を寵愛し出した頃から、関係が悪化。これに危機感を抱いた仲麻呂が反乱。乱を鎮圧後、淳仁天皇を廃位し、重祚して48代・称徳天皇となったものの、道鏡への寵愛が過ぎ、人心が離れてしまったようで、その後病床についたことを奇貨として、十分な看病もつけず、見殺しにされたのではないかなどとも言われている女性である。 770年8月28日(神護景雲4年8月4日)53歳にて没。 ここに、天武系天皇は終焉する。 孝謙天皇陵の北側の細道の階段を登って行くと、成務天皇陵である。 (成務天皇陵) 成務天皇陵は遥拝所の鳥居の建て替え工事中のようで、天皇陵に付き物の石鳥居が見当たらない。 成務天皇は、12代・景行天皇と八坂入媛(やさかのいりびめ)との間の子。第13代天皇である。 日本武尊は、景行天皇と播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)との間の子であるから、成務天皇は、ヤマトタケルの異母弟ということになる。尤も、景行天皇の子は男女あわせて80名と日本書紀にはあるから、異母兄弟と言っても?ではあるだろう。 成務天皇は些か影の薄い天皇であるが、日本書紀には「国郡(くにこほり)に造長(みやつこをさ)を立て、県邑(あがたむら)に稲置(いなき)を置(た)つ」とあるから、地方の行政機構の整備を行った天皇なのである。 彼には男の子が無かったので、異母兄の日本武尊の息子、即ち成務からすれば甥にあたる、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子に立てる。後の第14代・仲哀天皇である。 日本書紀では、107歳で没し、「倭国の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬(はぶ)りまつる。」とある。 (日葉酢媛陵) 成務天皇陵と道ひとつを挟んでスグ東側にあるのが日葉酢媛命陵。 日葉酢媛は第11代・垂仁天皇の皇后である。 四道将軍の一人、丹波道主王(たにはのちぬしのおほきみ)には5人の娘があった。長女・日葉酢媛(ひばすひめ)、二女・渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)、三女・真砥野媛(まとのひめ)、四女・薊瓊入媛(あざみにいりひめ)、五女・竹野媛(たかのひめ)である。 垂仁天皇の最初の皇后は狭穂媛。彼女の兄・狭穂彦が謀反を起こし、天皇を寝所にて殺せと兄から匕首を手渡されるが、果しえず事の次第を明かす。天皇は直ちに軍勢を送り狭穂彦を討たせる。この時、自分が人質となれば兄の罪を赦して貰えるかもと、兄がたてこもる稲城に、幼い息子の誉津別(ほむつわけ)を抱いて逃げ込む。しかし、稲城に火が放たれるに及び、もはやこれまでと息子の誉津別のみ返し、彼女は兄と共に死を選ぶ。 その死に臨んで、「丹波道主王の娘5人はいずれも志貞潔、彼女たちを後宮に迎え入れなさいませ。」と遺言する。 かくて、5人の娘たちが後宮に召され、日葉酢媛が皇后となり、妹3人が妃となる。五女の竹野媛だけは「形姿醜きに因りて」丹波に帰されることとなる。竹野媛はこれを恥じ、帰される道中、輿から自ら落ちて死ぬ。それでその地を「おち国」と呼ぶようになった。乙訓郡の地名の起源はこれで、「おち国」が「おと国」に訛ったのだという。 日葉酢媛が皇后となるに至った経緯には悲しい裏話があったことになる。 それかあらぬか、成務天皇陵と日葉酢媛陵の間の細道を行くと風花が散って来るのでありました。寒い日でありました。 平城駅東側の踏切を渡ると山陵八幡神社。 この神社の北側が次の目的地、神功皇后陵である。 神功皇后は仲哀天皇の皇后。応神天皇の生母である。 八幡神社の祭神は応神天皇であり、その母である神功皇后も祭神として祀られているのであるから、ここに八幡神社があるのは当然至極なことと言える。ということで、立ち寄って行く。 (山陵八幡神社・拝殿) 神功皇后陵へは緩やかな石葺きの階段を登って行く。 梅の花が今が盛りと咲き匂っていて、いい雰囲気である。 (神功皇后陵) 此処はスペースも広いので、当日のお弁当の場所にいいかと思う。 (同上・正面遥拝所) 神功皇后陵から平城駅に戻る。 今回のミッションの一つは、道中のトイレの場所確認。 西大寺駅前からここまではトイレは無い。駅前付近でトイレを済ませてから歩いていただく必要がある。次のトイレはこの平城駅ということになる。 平城駅から秋篠川沿いの道を行く。 風花が時折に散り来る程度であったのが、秋篠川沿いを歩いているうちに激しく降り出して来ました。 みささぎを めぐりむかへば あきしのの 里はここだも 風花舞へる (風花家持) (秋篠川沿いの道、前方に奈良競輪場) 雪が舞ったのも一時のこと。すぐに止みました。 奈良競輪場の前を過ぎ、細い住宅街の路地へと入って行くと、ハシブトガラスの姿が目立つようになる。何羽かが道を塞ぐように群れている処も。鳥が苦手なももの郎女さんは「駄目。」と立ち止まってしまう始末。 幸い、手前で路地を左折するコースであったので、カラスを追い払う必要もなくありました。真っ直ぐに進めば東門に至るのだが、正面である南門から入ろうという計画。 その南門の前にあるのが八所御霊神社。この神社は元は秋篠寺の鎮守社であった神社。 (八所御霊神社) (同上・ご祭神) その名が示す通り「八所御霊」を祀る神社。 八所御霊とは、桓武天皇の弟の早良親王(崇道天皇)、桓武天皇の息子の伊予親王とその母藤原吉子(二人は謀反の罪を着せられ服毒自殺している。伊予親王の変。)、橘逸勢(仁明天皇の次の天皇を、仁明の息子の道康親王<後の文徳天皇>にするか、淳和天皇の息子の恒貞親王<当時皇太子であった>にするかの対立で起こった謀反でっち上げ事件、承和の変で逮捕、伊豆に流される途中で死亡。)、文室宮田麻呂(謀反の密告を受け、伊豆へ流罪)、藤原広嗣(藤原広嗣の乱で斬首)、吉備真備、菅原道真ら非業の死を遂げた8人の霊のこととされる。 (注)吉備真備は非業の死とは無関係であるから、何故彼がここに含まれているのか疑問。陰陽道の祖が彼と考えられていて、藤原広嗣の怨霊を鎮めたという伝説が関係しているのだろうか。 上掲写真の祭神名で「火雷大神」とあるのは、菅原道真と吉備真備が習合した神とされるところ、別に吉備大臣が列記されているから、ここでは菅原道真を指しているのだろう。 (同上・本殿説明碑) 八所御霊神社の背後、北側に秋篠窯という窯元がある。足を延ばしてみたが、ここも日曜日はお休みのよう。人の気配なしである。 (秋篠窯) 秋篠寺南門前に戻る。 (秋篠寺・南門) 秋篠寺は随分の昔に訪れたきりなので、久しぶりの訪問である。 昨年の読書会で取り上げた五木寛之著「百寺巡礼」第1巻奈良の中で、同氏は、秋篠寺を「市井にひっそりとある宝石のような寺」と評して居られるが、南門から境内に入ると一面の苔の世界である。左側の西塔跡、右側の東塔跡、奥の金堂跡は木々が林立し苔の絨毯になっている。 秋篠寺の創建については、諸説あって定かではないそうだが、一般には奈良時代末期の宝亀11年(780年)、光仁天皇の発願により、善珠大徳という興福寺の僧が開いたとされている。 別の説では、元々、秋篠氏の氏寺であったものを、光仁天皇が興福寺から善珠を招いて勅願の寺としたのだとか、光仁天皇の皇后・井上内親王(聖武天皇の娘で安積親王の同母姉でもある。)とその子である皇太子・他戸親王が「天皇呪詛」の罪を着せられ、廃后・廃太子となり、殺されてしまうという事件があり、これによって、山部親王が天皇に即位する道が開けることとなったのであるが、この井上皇后と他戸皇太子の怨霊を鎮めるために建立されたのが秋篠寺だというのもあるとのこと。 井上内親王、他戸親王と言えば、御霊神社のご祭神として祀られていることが多いが、南門前の御霊神社にその名が見えないのは、秋篠寺そのものがこの両人の菩提を弔う寺だったとすれば、理屈に合っていることになるとも言える。 (同上・本堂) 本堂は元講堂。金堂が焼失しているので、講堂が本堂となっているのだろう。堂内には、本尊の薬師如来や人気の伎芸天などの仏像が多数並んでいるが、堂内は勿論、撮影禁止である。 本堂の薄暗がりから出て来ると眩しいばかりの光。空は真っ青に晴れて初春の光が燦々である。で、青空を背景に本堂をもう1枚撮影。 (同上) 本堂の西側にあるのが、開山堂と大元堂。 (大元堂と開山堂) ももの郎女さんと雑談しながらということもあってか、東門を出たところで、会津八一の歌碑を撮影するのを忘れていたことに気付く。 これは本番に撮影することとしましょう。 秋篠の み寺をいでて かへりみる 生駒がたけに 日はおちむとす (八一) 秋篠の み寺をいでて 歌碑撮るを 忘れ来たるを 言ひつつ帰る (偐家持) 東門を出て、道を東に少し進んだところ、左手(北側)に堅牢地神社がある筈なのだが、進入路が見つからない。仕方なく、これはカットして、帰途につきました。帰宅して地図で確認すると、進入路は東側からになっていて、バス停のある辻の少し先を左(北)に入ると進入路(神社ですから参道と言うべきですが)があるのでした。 下準備堅牢に非ざるによりて堅牢地神社に至るを得ず、でありました。 西大寺駅前到着が午後3時25分。 所要時間は、ほぼ2時間半。本番は昼食タイムで30分程度余分にかかるとして、3時間。途中のロスタイムなどを考慮しても、午前10時半出発だから、午後1時半から2時前後には西大寺駅前に帰着、解散できるだろう。 これにて下見終わり。 西大寺から電車で、生駒で乗り換えのももの郎女さんと別れて、小生はそのままの電車で枚岡駅下車。午後4時過ぎには帰宅できました。 寒い中、下見にお付き合い下ったももの郎女さんも大変ご苦労様でございました。 <追記:参考> 過去の銀輪万葉・奈良県篇の記事は下記からご覧下さい。 銀輪万葉・奈良県篇(その1) 銀輪万葉・奈良県篇(その2) ペリカンの家関係の過去記事はコチラから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[銀輪万葉] カテゴリの最新記事
|
|