カテゴリ:銀輪万葉
(2020.5.13.富田林まで銀輪散歩の続編)
5月12日に石川自転車道を走ってみようと銀輪散歩に出かけたことは、13日の記事で紹介済みであるが、その折には、大伴という名前の土地付近で引き返して来たのでした。 以前よりその付近が大伴という地名であることは承知していたのだが、大伴家持の「大伴」と何らかの関係があるのかどうか、ぼんやりとした関心は持ったものの、特に調べるということもせずにいたのでしたが、地図を見ていて、大伴黒主神社が少し先に行ったところにあることを発見したので、昨日(22日)、もう一度、富田林方面へ出かけることにしました。 前回は、何処と言って目的地もなかったので、恩智川沿いを走る遠回りコースで大和川畔へと走りましたが、今回は、目的地が明確なので、外環状道路(R170)を走り、恩智川と外環が交差する恩智から恩智川沿いの道に入るという、少しばかり近道コースを走りました。 これだと自宅から42~3分で大和川畔に到着できる。 石川自転車道に入る。 河川敷にはセンダンの大木が所々にあり、丁度これが花の盛り。 (センダンの大木) センダンの花は薄紫色なのだが、このように白っぽく見えるものもありました。 (同上) センダン(栴檀)の別名は「楝」。万葉植物である。 旧仮名だと「あふち」、現代仮名だと「おうち」と書く。 万葉ではこの楝という名で詠われている。 楝の歌で一番有名なのは、山上憶良が妻を亡くした大伴旅人の気持ちになって詠んだこの歌だろう。 妹が見し 楝の花は 散りぬべし 珠に貫く 楝を家に 植ゑたらば ほととぎす 楝の枝に 行きて居ば (センダンの花) (同上) 今回は、接近して花を大きく撮った写真がないので、過去記事のそれを再掲載して置きます。 (同上 2014.5.16.奥浜名湖銀輪散歩(その3)から再掲載) 石川自転車道を石川サイクル橋まで走る。 石川サイクル橋を渡って石川東岸(右岸)の道に移る。 (石川サイクル橋から石川下流を望む。) (石川サイクル橋から石川上流を望む。) ※写真中央の橋は新北橋。この上流に金剛大橋があり、その手前で左側(東側)から流れ込んでいる川が佐備川である。左寄り奥に見える小高い丘が金胎寺山か。この丘の向こう側は河内長野市。観心寺・後村上天皇陵がある。 石川東岸の道を上流へと走ると石川に流れ込んでいる佐備川に至る。 佐備川河口に架かっている橋が大伴橋。 (佐備川河口の橋・大伴橋とマイMTB) はい、佐備川河口、大伴橋北詰に到着。 (大伴橋銘板) (佐備川) 少し角度を変えて撮るとPLの塔が見えているのでありました。 (佐備川、大伴橋、奥にPL大平和祈念塔) 佐備川沿いに上流へ。次の橋が新旭橋。 金剛大橋から延びている道、府道705号(富田林五条線)に出る。 この道を終点まで行けば、金剛山ロープウェイ乗り場であるが、勿論、そんな遠くまでは今回は行けない。 (新旭橋・府道705号 金剛大橋方向が奥。) いよいよ、大伴黒主神社へと向かいます。 ここで、参考までに地図を掲載して置きます。 (大伴黒主神社位置図) ※写真をクリックすると大きいサイズの写真が別窓で開きます。 (同上) 神社への道はちょっと分かりにくい。 この地区の公民館の隣にあるので、その案内標識に従って行くといいのだが、そんなこととは知らなかったので、脇道に入るタイミングが分からず、少し行き過ぎてしまう。 そして到着。 こじんまりとした神社である。 (大伴黒主神社) この付近の「大伴」という地名は、この大伴黒主に関係したものなら、大伴家持などの「大伴」とは無関係ということになる。 大伴黒主は大伴氏の末裔ではない。 大伴氏は、平安時代初期、淳和天皇の時に「伴」と改名しているから、大伴黒主が大伴氏の出自であるなら伴黒主でなくてはならないことになる。 大伴黒主の出自は明らかではなく、猿丸大夫の子説や近江の豪族・大友氏説などがあるようですが、大友氏説が有力なようです。それに立てば大友黒主ということになる。 因みに、大伴氏の伴氏改名の経緯は、次のようなもの。 桓武天皇には、皇后乙牟漏(藤原良継の娘)との間に安殿親王(後の平城天皇)、神野親王(後の嵯峨天皇)があり、夫人旅子(藤原百川の娘)との間に大伴親王(後の淳和天皇)がいた。 大伴親王が即位して淳和天皇となると、天皇の諱(忌み名。実名のこと)である「大伴」を、臣下である大伴氏が名乗るのは畏れ多いとして伴氏に改めたという次第。 余談になるが、8年前に藤原旅子の御陵を訪ねたことがある。 その参道入り口に「三ノ宮神社」があったことを記憶している。 その時には彼女の息子の淳和天皇が桓武天皇の三男、つまり三ノ宮に当たるということに思い至らず、立ち寄らずにやり過ごしましたが、あれは淳和天皇を祀っている神社であったのだということに今頃になって気づきました。 <参考>京都南部銀輪散歩・桓武天皇母陵、同夫人陵へ 2012.3.25. (同上) 大伴黒主が大友氏に所縁があるのなら、大友皇子(弘文天皇)、与多王、三井寺などとも関係があるということになるが、大津市南志賀にも大伴黒主神社があるようなので、いずれ訪ねてみよう。 近江に関係の黒主の神社が、何故、富田林市山中田地区にあるのか。 それは江戸時代に起こった当地区・山中田村での大火災が原因しているとのことですが、それは後述します。 ともかく、この地の地名、大伴というのは、大伴氏が古代にはこの地を支配していたことに由来するらしいですから、やはり「大伴氏」関係の地名であるようです。 <参考>大友黒主・Wikipedia 大伴黒主と言えば、六歌仙の一人。 六歌仙というのもいい加減なもので、紀貫之さんの手になるという古今和歌集の仮名序に名を挙げられた6人の歌人を六歌仙と言っているに過ぎないのである。 その中で、大伴黒主は、 「その様、卑し。言はば、薪負へる山人の、花の陰に休めるがごとし。」 と散々な言われようである。まあ、黒主に限らず、他の5人も似たり寄ったりの言われようであり、名の挙げられていないその他の歌人については、そもそも歌の何であるかが分かっていない、と切って捨てられているから、黒主さんもそう悲観することはないのではある。 他者の歌についてここまで言ってしまっては、他者からは「では、お前の歌はどうなのだ」という反発が当然に考えられますから、自分の歌が詠めなくなるのでは、と思うのが凡人の感覚。紀貫之さんは、そのツラが雪まみれになっても平気という、その名の通りにツラの皮が相当に厚いようで、そんなことは気にもかけないということなんでしょう。 (同上) ついでに、他の5人についての紀貫之コメントを下記して置きます。 僧正遍昭は 在原業平は 文屋康秀は 喜撰法師は 小野小町は そうじやうへぜうは、歌のさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし。 <参考>古今和歌集仮名序・Wikisource (同上・本殿) さて、大伴黒主神社が当地・山中田地区にある由縁です。 この大伴黒主神社の背後の丘陵部には西大寺山古墳群と呼ばれる古墳時代前期から終末期にかけての古墳群があります。その北端に夫婦塚と呼ばれる古墳があり、大伴黒主夫婦の墓と伝承されていました。 江戸時代、これを開墾して田畑にしようと、塚の取り壊しにかかると、中から黒蛇が現われ、山中田村に逃げ込み、姿を消します。 すると、その年に山中田村で大火災が発生。村の半分以上が焼失。 村人たちは、大伴黒主の祟りだと考えました。その祟りを恐れて、神社を建て、大伴黒主を祀ることにしました。これが、当地に大伴黒主神社がある由縁だそうです。 大伴の地に紛らわしくもある大伴黒主神社でありますが、古今集に所収の大伴黒主の歌3首を紹介申し上げて、銀輪散歩終了とさせていただきます。 春さめの ふるは涙か 桜花 ちるををしまぬ 人にしなければ (古今集88) 思いでて 恋しき時は 初雁の 鏡山 いざたちよりて 見てゆかむ 以上です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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