カテゴリ:銀輪万葉
(承前)
大和神社から国道169号に出たところで(上)が終わりましたので、そこから始めます。 次に向かうのは第26代継体天皇の皇后である手白香皇女の衾田陵。 これが、結構な坂道。 (コース図・大和神社→衾田陵→人麻呂歌碑→黒塚古墳) 手白香皇女の御陵とされている古墳は西殿塚古墳という古墳時代前期、3世紀後半に築造の古墳と推定されていて、時代が合わないことから、その北西側にある西山塚古墳(6世紀前半頃の築造)が真の手白香皇女衾田陵であるという有力説がある。 継体天皇陵と今城塚古墳の関係に似た状況が、その皇后である手白香皇女の御陵についても生じているという次第。 尤も、このことを知ったのは帰宅してからのことで、西山塚古墳はすぐ近くを通りながら、スルーしてしまい、写真はありません。 (西殿塚古墳と西山塚古墳の位置関係・赤線は当日の銀輪コース) 手白香皇女は、第24代仁賢天皇と春日大娘皇女(第21代雄略天皇の娘)との間の娘。第25代武烈天皇(その実在性については疑問もあるが)没後空位となった天皇にと越前から招聘されたのが継体天皇。大和にはこれに反対する勢力も強くあったと見え、継体天皇はなかなか大和に入れない。そこで仁賢天皇の皇女である手白香皇女を皇后に迎えてその権威付けをはかったと考えられる。継体が大和に入ることが可能となったのは、手白香皇女のお陰ということになる。 継体には尾張目子媛という妻がいて、後に安閑天皇(第28代)、宣化天皇(第29代)となる息子もいた。言わば「子連れ嫁付き」での仁賢天皇皇女への婿入りという形であった。そのようにして自身の天皇即位の正統性を補強する必要があったということだろう。 継体没後の天皇位は、日本書紀では安閑、宣化、欽明ということになるが、連れ子であった安閑、宣化を天皇とする王朝と手白香皇女との間の子である欽明を天皇とする王朝が並立していたという説もあって、ややこしいのであります。 (手白香皇女衾田陵<西殿塚古墳>) 手白香皇女衾田陵へは、国道169号から急な坂道を上る。 結構きつい。 衾田陵訪問は直近でも2013年3月のことだから、8年ぶり。 久々の訪問である。 <参考>山の辺の道銀輪散歩・桜井から長柄まで(その4) 2013.3.19. 前回は、西の空が朱に染まる日没の時間帯でしたが、今回は昼下がりの明るい空の下での訪問。 (同上・西方向を望む。) 正面奥に見えるのは二上山。 次に向かうは、柿本人麻呂の泣血哀慟歌の犬養万葉歌碑。 衾田陵から坂を下って来ると、下池山古墳というのが目にとまりましたが、前方後方墳という形式の古墳である。 (下池山古墳説明碑) 前方後方墳というのは全国で約500基あるそうだが、前方後円墳に比べるとはるかに少数である。両者の違い、関係については諸説あって十分には解明されていないとのこと。 それはさて置き、人麻呂歌碑です。 上記<参考>の2013年3月19日記事には、その銀輪散歩で撮影した当該歌碑の写真を掲載していますが、今回は、間違った道を進んでしまったようで、見つけることができませんでした。 よって、上記記事の写真を再掲載して置くこととします。 (柿本人麻呂歌碑<巻2-212> 2013.3.19.記事掲載写真の再掲載) 万葉集の巻2に「柿本朝臣人麻呂、妻の死りし後、泣血哀慟みて作れる歌二首並びに短歌」が収録されている。 そのうちの212番の短歌の歌碑がこれである。 犬養孝先生の揮毫による歌碑ということで、犬養万葉歌碑と呼ばれる歌碑の一つである。 犬養孝・山内英正「犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪」(和泉選書)によれば、「襖の引手の製造業者である坂本金属工業社長の坂本操太郎氏と弟の左加光氏は、引手の山の麓に衾田陵があることに、自社との不思議な縁を感じ、歌碑建立を思い立った。」とあるが、地元の会社、株式会社坂本金属工業所が犬養先生に揮毫を依頼して、昭和45年(1970年)4月に建立したものである。 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし (柿本人麻呂 万葉集巻2-212) 泣血哀慟歌は、「天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が・・」で始まる207番の長歌とその反歌2首(208番、209番)並びに「うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し・・」で始まる210番の長歌とその反歌2首(211番、212番)で構成される。 <参考> うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 児らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白たへの 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物し無ければ 男じもの わきばさみ持ち 吾妹子と 二人わが寝し 枕づく 妻屋の内に 昼はも うらさび暮し 夜はも 息づき明し なげけども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしを無み 大鳥の 羽易の山に わが恋ふる 妹はいますと 人の言へば 石根さくみて なづみ来し 吉けくもぞなき うつせみと おもひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば (柿本人麻呂 万葉集巻2-210) 反歌 去年見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離る (同 巻2-211) 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし (同 巻2-212) 210番長歌の歌碑は明日香村の橘寺前北西にある。<参考>210番長歌歌碑の写掲載記事 明日香・橿原銀輪散歩(その2) 2014.3.20. また、207番長歌の歌碑は、全文ではなく、後半部分の抜粋であるが、近鉄吉野線・岡寺駅の西側の牟佐坐神社の石段左手にある。 <参考>207番長歌の全文及び同歌碑の写真掲載記事 飛鳥川銀輪散歩 2014.5.31. ※長歌全文は記事本文ではなくコメント欄に記載しています。 崇神天皇陵はスルーして、国道169号とお別れ、崇神天皇陵前から西へ入り、黒塚古墳に立ち寄る。 この古墳で銅鏡が発掘されて話題となったのは、随分の昔。この時の現地説明会には今は亡き父と二人で参加した。我々は早い時刻にやって来たので、さして待つことなく見学できたが、見学を済ませた後、周辺を歩き回って、再び戻って来たら、見学者が現地から駅まで延々と列をなして並んでいたのを見て驚き、早い時間に来てスムーズに見学できたことの幸運を口にしたことをよく覚えている。しかし、見学した内容や受けた説明はもう何一つ覚えていない(笑)。 (黒塚古墳 史跡としては黒塚古墳で、公園としては柳本公園である。) (同上) (史跡黒塚古墳説明碑) 天理市立黒塚古墳展示館も併設されている。 (黒塚古墳展示館) 館内に入ると(入館無料)、発掘時の古墳の状態を再現したレプリカが展示されていた。 (同上・発掘時状態再現レプリカ) 以上で予定の目的地は歌碑を別にして全部クリア。 帰宅モードに切り替え、車をとめている廣瀬神社へ引き返すべく、JR柳本駅へと向かう。柳本駅南側の踏切を渡り、西へ。 大和川に出くわしたところで、その川沿いの道を北へと走る。 引手の山の竜王山がよく見える。 (竜王山) 大和川の川べりの道は「水の辺の道」と名付けられているようだ。 山路を行けば生けりともなし、の人麻呂と違って、偐偐銀輪二人組は川辺の道に出ると「生き生き」である。 そんなことで、調子に乗ったか、偐山頭火氏がこんな写真も送って来た。 (うしろ姿のしぐれてゆくか?) 途中、法貴寺地区の見覚えある神社で一休み。 (池坐朝霧黄幡比賣神社) この神社記憶にあるので、ブログの過去記事を調べてみたら、2016年4月に立ち寄っていました。 <参考>銀輪万葉・奈良銀輪散歩 2016.4.20. (同上・由緒)栲 拝殿の扁額には「天満宮」とあるが、もともとは天萬栲幡千々比賣命という機織の神を祀る神社であったようだ。 天神さんが後からやってきて、主従逆転してしまったのだろう。 前回立ち寄った時には無かったと思われる歌碑がいくつかありました。 (長意吉麻呂歌碑) 池神の 力士舞かも 白鷺の 桙くひ持ちて 飛び渡るらむ (長意吉麻呂 万葉集巻16-3831) この歌の歌碑は、榛原の蓮昇禅寺の境内にもあったのを記憶している。 <参考>蓮昇禅寺の歌碑掲載記事 中学時代の級友との大宇陀万葉ウオーク下見 2017.11.10. また、令和に因んでの碑もありました。 (令和の碑・万葉集巻5梅花の歌32首の序) あと、天満宮ということで、菅原道真の「こち吹かば・・」と「このたびは幣もとりあへず・・」の歌碑がありましたが、撮影は割愛しました。 この後は、ひたすら走るだけで写真はありません。 午後4時半頃に廣瀬神社に到着し、約5時間の銀輪散歩無事に終了いたしました。 <2021.6.20.追記・参考> 奈良県の銀輪万葉過去記事は下記参照 銀輪万葉・奈良県篇(その1) 銀輪万葉・奈良県篇(その2) <2021.6.21.追記・参考> 同行の偐山頭火氏のブログ記事は下記参照 偐家持氏にむなぎを馳走させ・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.06.21 13:18:54
コメント(0) | コメントを書く
[銀輪万葉] カテゴリの最新記事
|
|