カテゴリ:銀輪万葉
久しぶりに神戸方面への銀輪散歩であります。
記事アップが遅くなりましたが、7月29日、神戸の敏馬から舞子の明石海峡大橋のたもとまで銀輪散歩してまいりましたので、何回かに分けて記事アップします。 JR三ノ宮駅前から国道2号に出て東へ。 走り出して気が付いたのはトレンクルの後輪タイヤの空気がやや抜けているということ。そう言えば、6月17日の偐山頭火氏との天理方面銀輪散歩の際に、同氏から後輪タイヤの空気が減っているとの指摘を受けていたのでした。 その後、トレンクルで走るということもなくこれを放置、出かける前にもチェックを怠っていたのでありました。 葺合署の前を通りかかったので、近くに自転車屋さんがないか尋ねてみると、一つ先の交差点のコンビニの隣にあるという。 丁度これから向かう方向であるので、ラッキーと行ってみたが、シャッターが下りていて午前11時からの開店のよう。そんな時間まで待てないので、他のどこかでと先へ進む。 先ず向かったのは、阪神・岩屋駅南側、国道2号沿いの敏馬神社。 万葉に登場する「敏馬の崎」「敏馬の浦」の「敏馬」がこの敏馬神社のある高台だというのが通説である。南西方向、兵庫区の和田岬だという説も有力ではある。 (敏馬神社)<参考>敏馬神社・Wikipedia 上の写真にも写っているが、石段の左側に「万葉ゆかりの地」の説明碑、右側には人麻呂の万葉歌碑がある。 (万葉ゆかりの地・説明碑) 敏馬の万葉歌でヤカモチに思い浮かぶ歌となると次の2首である。 妹と来し 敏馬の崎を 帰るさに ひとりし見れば 涙ぐましも (大伴旅人 巻3-449) 行くさには 二人我が見し この崎を 大宰府赴任中の神亀5年(728年)晩春の頃に妻・大伴郎女を亡くしているから、その悲しみがまだ癒えない中での帰京であり、一時危篤となる大病を半年前に患っているということでもあったから、心身ともに弱っている中での帰京であったのだろう。 彼は、旅立つ前にこんな歌も詠んでいる。 都なる 荒れたる家に ひとり寝ば 帰路の旅では、同じそれをひとり寂しく眺めなければならない。 悲しさ、寂しさの増す、辛い旅となったことだろう。 一首目の「敏馬の崎」の「敏馬(みぬめ)」は「見ぬ妻(め)」(見ない妻、逢えない妻)でもあるとか。 帰京して詠んだ歌も同じもの。 人もなき 空しき家は 草まくら 旅にまさりて 苦しかるべし (同上 巻3-451) 因みに、天平3年7月25日(731年8月31日)、帰京後わずか7か月で彼は病没している。 (敏馬神社境内の大伴旅人歌碑) さて、石段右側の万葉歌碑です。 (人麻呂万葉歌碑) 玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 海人処女たちが玉藻を刈っている賑やかで優美な敏馬から、夏草の青々と繁茂した人もいない荒涼たる野島へと舟が近づく。明石海峡の洋上からは生駒山など大和の山々はまだ遠くに見えているが、淡路島の西岸にある野島に入ると、もう大和の山影は望めない。明石大門は難波、大和への入り口と認識されていたであろうから、これよりは西国ということになり、旅愁もこの先いよいよ深くなるというもの。人麻呂歌の「玉藻刈る」と「夏草の」という枕詞はこのようなイメージを喚起させるように使われているという。 (敏馬の泊・敏馬の浦の変遷) 本殿の右側にあるのが田辺福麻呂の万葉歌碑。 (田辺福麻呂万葉歌碑) 八千桙の 神の御代より 百船の 泊つる泊りと 八島国 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白砂 清き浜辺は 行き帰り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経て 偲はえ行かむ 清き白浜 (田辺福麻呂 巻6-1065) 反歌 まそ鏡 敏馬の浦は 百船の 浜清み 浦うるはしみ 神代より この歌は敏馬の地を褒める歌、敏馬讃歌であり、万葉集巻6の巻末を飾る祝歌でもある。 現地の歌碑では、1067番歌を省いているが、これは「大わだの浜」を「大きく湾曲した入江」という普通名詞とは考えず、別の土地の固有名詞と捉えたからだろう。 固有名詞としての「大わだの浜(大和太の浜)」については、神戸市兵庫区和田崎町の浜、旧湊川(現在の新開地本通の筋)河口付近または新湊川河口付近など諸説があるようですが、いずれにしても敏馬からは南西に数キロ離れた別の場所である。 (敏馬神社・拝殿) 敏馬神社の祭神は、素戔嗚尊(主祭神)、天照皇大神、熊野坐神であるが、元来の祭神はミヌメ神、即ち、水神のミヅハノメ(弥都波能売)神であった。 そのミヅハノメを祀るのが境内の水神社。 (水神社) (同上・説明碑) 説明碑の文字がかすれていて読みづらいが、祭神のミヅハノメから「みぬめの名が誕生したと考えられる」とある。 (后の宮) 祭神は神功皇后。 (同上・説明碑) 説明碑には「敏馬神社は神功皇后が御創建なされたとの摂津風土記の記録に従いここにお祀りす」とある。 これは、摂津国風土記逸文に次のような逸話が記されていることを言っているのである。 新羅征伐に出発するに際して、神功皇后が先勝祈願をすると、猪名川上流の能勢の美奴売山の神がやって来て、美奴売山の杉の木で船を造れば必ず勝利すると告げた。その通りにすると勝利した。その帰途、当地の沖までやって来ると船が動かなくなる。占ったところ、美奴売山の神の意志によるものということが分かる。そこで当地に美奴売山の神を祀ることにした。 (松尾神社) もう一つの境内社は松尾神社。 (同上・説明碑) 当地は灘五郷の一つ、酒造業、江戸へ酒を運ぶ回船業が栄えた土地ということで、松尾神社という次第。 敏馬神社にもうしばらくとどまりますが、続きは明日以降ということで、本日はここまでとします。(つづく) <参考>兵庫県方面の銀輪万葉の過去記事はコチラ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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