カテゴリ:銀輪万葉
(承前)
前ページ記事の続きです。 敏馬神社境内の片隅に再建碑なるものがあった。 裏面を見ると、 昭和20年 6月 戦災により社殿焼失 昭和24年 6月 復興のため敏馬講開講 昭和27年10月 本殿を再建 昭和28年 3月 稲荷社を再建 昭和33年 7月 拝殿を再建 昭和35年12月 宝庫、神輿庫を再建 敏馬講閉講記念として 昭和49年7月吉日 建之 とある。 (再建碑) (同上・裏面) 太平洋戦争末期、神戸空襲で敏馬神社は焼失し、その再建のための資金を集めるため講が組まれたのですな。15年余をかけて復興を果たし、講は解散、その記念としてこの再建碑が建てられた。 しかし、平成7年(1995年)阪神淡路大震災により、本殿、社務所などがまたも崩壊、7年かけてこれを再建することになったという。 その本殿再建中に仮本殿となった建物の前には、万葉歌碑の残骸と言っていいのかどうかわからないが、こんなものが壁に立てかけられていました。 (若宮年魚麻呂万葉歌碑) わたつみは くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻ほし 居待月 明石の門ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干れしむ 潮さゐの 波を恐み 淡路島 磯隠り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに 眠の寝かてねば 滝の上の 浅野のきぎし 明けぬとし 立ちさわくらし いざ子ども あへて漕ぎ出む にはも静けし (若宮年魚麻呂 巻3-388) 反歌 島伝ひ 敏馬の崎を 漕ぎ廻れば 神社境内の南側玉垣に沿って、敏馬に因んだ和歌などを書いた木札が立ち並んでいる。 大伴旅人のそれは(その1)の記事に掲載済みなので、それ以外のものを紹介して置きましょう。 (藤原定家歌碑) (西園寺公経歌碑) (順徳天皇歌碑) (吉田兼好歌碑) (賀茂真淵歌碑) 最後は歌碑ではなく、蕪村の弟子二人の句碑であります。 (呉春と大魯の句碑) 最後に、山部赤人の敏馬の歌を掲載して、敏馬神社とお別れすることとしましょう。 この歌は、赤人が女性の立場に立って詠んでいるもので、誰か或る女性のために代作したものであるなどとも言われている。 御食向かふ 淡路の島に 直向かふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその 己が名惜しみ 間使ひも 遣らずて我は 生けりともなし (山部赤人 巻6-946) 須磨の海人の 塩焼き衣の なれなばか 1.5kmほど走ったところで、新生田川左岸の公園に出くわす。 HATゆめ公園である。 公園は通過しただけであるが、歌碑が2基あったので撮りました。 (源雅実歌碑) (同上・副碑)<参考>布引の滝(兵庫県)・Wikipedia (藤原公実歌碑) (同上・副碑) 道路下を潜る通路を抜けて北へ少し戻り、新生田川を渡る。 (新生田川 河口方面を望む) この付近は道路が輻輳していて、地理感のないヤカモチには難敵。 新生田川右岸を海の方向へ走る。 ハーバーハイウェイの高架下の道を西へ。 神戸税関の南側を過ぎて突き当りで右折、北へ少し上がって、第五管区海上保安本部のある合同庁舎前の遊歩道を西へ。 その入り口にこんな碑がありました。 (網屋吉兵衛顕彰碑) (同上・副碑)<参考>網屋吉兵衛・Wikipedia 網屋吉兵衛という人のことは存じ上げなかったが、呉服商を営むかたわら、私財を投じて、嘉永7年(1854年)9月に大坂谷町代官所の許可を得、神戸村安永新田浜の入江(現、新港第一突堤基部の京橋、つまりこの碑のある場所付近)で、フナクイムシの駆除を行うための乾ドックの建設工事に着手、安政2年(1855年)9月にこれを完成させた人物とのこと。神戸港築港の先駆者とされている。 (合同庁舎前の遊歩道) 遊歩道を西へと進むと小さな公園があったので、そこで木陰に入り一休みして水分補給。鳩としばし遊んで、メリケンパークへと向かいます。 こういう猛暑の中の銀輪散歩は、コンビニで購入する凍結スポーツドリンクのペットボトルが不可欠。この日もこれに助けられて熱中症になることもなく走れました。 この段階では、自転車屋さんは見つからず、トレンクルの後輪タイヤの空気は減ったままで、いささか走りにくい状態が続いています。 (参考地図・神戸港) この後、メリケンパークですが、今日はここまでとします。(つづく) <参考>兵庫県方面の銀輪万葉の過去記事はコチラ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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