カテゴリ:銀輪万葉
(承前)
前ページ記事の続きです。 鳩の公園を出て、左に行くとメリケンパーク入口。 バイク乗り入れ禁止とあるので、これに自転車が含まれるのであれば、乗ったまま進入してはいけないことになる。ひとまず降車して手押しで歩いて入ることとする。しばらく行くと向こうから自転車で走って来る人の姿。どうやら自転車に乗ったまま進んでもよいようなので、再び乗車。 (メリケンパーク入口) 正面の建物はホテルオークラ神戸。 前を横切っているのは阪神高速3号神戸線の高架。 (メリケンパーク、神戸海洋博物館と神戸ポートタワー) 神戸震災メモリアルパークの先にあったのは、昭和天皇の歌碑。 (昭和天皇御製歌碑) 港まつり 光りかがやく 夜の舟に こたへてわれも ともしびをふる (同上・裏面) 歌碑裏面の説明をみると、この歌は昭和32年の宮中歌会始で詠まれたもので、前年の昭和31年10月の御来神の折、宿舎であったオリエンタルホテルの屋上から、神戸みなと祭の海上の提灯行列の光景をご覧になっての印象を歌にされたものだという。 このオリエンタルホテルというのは、京町筋にあるオリエンタルホテルのことであるから、上の写真の歌碑の背後に見えている神戸メリケンパークホテルのことではない。 また、京町筋のオリエンタルホテルも平成7年の阪神淡路大震災で全壊して建て替えられているので、現在のそれでもないということになる。 天皇のこの歌と何らかの関係があるのかどうかは知らぬが、昭和39年にオリエンタルホテル屋上に、港町神戸のシンボルとして公式灯台が設置されるという異例の展開となる。 しかし、震災によるホテル全壊により、日本で唯一のホテル灯台も一時姿を消すことになる。 この時、姉妹ホテルとして建築中であった神戸メリケンパークホテルに灯台が引き継がれることとなり、同ホテルの最上階デッキにこれが設置され、ホテル灯台は復活、再び灯をともすこととなり、今日に至っている。 (神戸メリケンパークホテル灯台) ※神戸メリケンパークホテルのホームページより借用 (メリケン波止場と神戸メリケンパークホテル) <参考>メリケン波止場・Wikipedia メリケン波止場とはアメリカ船が着く波止場という意味、転じて外国船が着く波止場という意味も。俗称であるから、外国船が発着する波止場であればどこの波止場でも成立する呼称ということになるが、横浜と神戸のメリケン波止場が有名で、普通にメリケン波止場と言えばこのどちらかのことということになる。 「窓を開ければ港が見える。メリケン波止場の灯が見える。」という淡谷のり子の「別れのブルース」のメリケン波止場は、歌詞そのものからはどちらとも言えないが、作詞・作曲の経緯からみて、神戸のメリケン波止場ではなく、横浜のメリケン波止場のようである。 <参考>別れのブルース・Wikipedia (メリケン波止場) メリケンパークを横断、神戸ポートタワーの下を通って、かもめりあ中突堤へ。 遊覧船が停泊して居り、そのうちの一艘が出航するところであった。 (停泊中の御座船)<参考>御座船・Wikipedia 御座船の船尾後方、観覧車の手前に見えている白い船は、神戸クルーズのコンチェルトだろうか。 もう12年も前のことになるが、神戸クルーズの社長(当時)が同窓生であるということもあって、大学の同窓会の幹事会をこのコンチェルトでのディナークルージングに乗船して行うというようなことがあった。 <参考>神戸クルージング 2009.9.26. (参考地図 神戸港とハーバーランド 赤線―は走行コース) かもめりあ中突堤を通り抜けて道路に出ると、向かいの建物がホームセンターのコーナンで、2階の窓にはサイクルサポートセンターとかなんとかの表示があった。 ここなら、空気入れが借りられるのではないかと、店に入ってみると、一階入り口脇に空気入れが2~3個置いてあった。 店のお方に申し出ると「どうぞお使いください。外では暑いでしょうから、店の中に入って空気を入れてください。」とまことに親切なお言葉が返って来ました。冷房のきいた館内で空気入れを使わせていただく。 お蔭で、後輪タイヤの空気圧は万全。安心して心置きなくこの後の行程を走ることができるというものであります。感謝です。お礼を述べて先へと進む。 (神戸港) 上の写真はコンチェルト乗り場にある建物”umie MOSAIC”の前から撮影したもの。中央に先ほど通り過ぎた御座船のマストと屋根部分が見えている。 <参考>神戸コンチェルト・ホームページ コンチェルト乗り場を通り抜けると、こんなものがありました。 (旧・新港第五突堤信号所) 説明碑には「当信号所は、神戸港に入出港する船舶に対する信号所として、大正10年に新港第四突堤に建設され、昭和12年に新港第五突堤に移設された。以来平成2年に役目をおえるまで、神戸海上保安部の運営のもとで、半世紀以上にわたって神戸港を見守り続けた。往年を偲ばせる信号所を当地に移築し、永く保存する。 最高高さ46.30m 平成4年3月 神戸市長 笹山幸俊」とある。 (同上・説明碑) 見上げると塔の上空に太陽がかかっていたので、姿勢を低くして塔の尖端に太陽がかかるようにして撮影してみたのが上の写真であります。 ハーバーランドの街路に戻り、ハーバーランド中央交差点の先で国道2号に出て左折直進、西出町交差点からは国道2号に別れ、海岸線道路を南下。 4~500mほど行ったところで、賀川豊彦生誕地と書かれた碑を見つけました。賀川豊彦がこの付近で生まれたということを初めて知りました。 (賀川豊彦生誕地碑)<参考>賀川豊彦・Wikipedia 道なりに行くと兵庫運河の新川に出る。 新川に沿って右に行くと、新川の湾曲した地点にあったのが、古代大輪田の泊の石椋。 (古代大輪田の泊の石椋) (同上・説明碑) ※画像をクリックすると大きいサイズの写真画面が開きます。 しばらく、万葉と関係のない銀輪散歩でありましたが、ここで、大輪田の泊が出てまいりました。この付近から和田岬の先にかけての海岸が「大和太の浜」であったのでしょう。(その1)で取り上げた下記の田辺福麻呂歌(1067番)に詠まれている「大和太の浜」である。 浜清み 浦うるはしみ 神代より 千船の泊つる 大わだの浜 (田辺福麻呂 万葉集巻6-1067) 銀輪万葉の面目が立ったところで、新川沿いにさらに進むと、新川に架かる入江橋の上でヤカモチを出迎えてくれたのが、清盛くん。 (清盛くん) う~ん残念。 万葉集の福麻呂くんではなく、平家物語の清盛くんであった。 兵庫港の発展は平清盛にまで遡るのであるか。 たしかに、清盛が京都から遷都した福原もこの地でありました。 兵庫区では平清盛を地域のシンボルとし、「清盛くん」をキャラクターにこの辺り一帯を「平清盛のまち」と定めているようです。 新川沿いの遊歩道を、対岸にイオンの建物を見つつ行くと、兵庫城跡碑なるものがありました。 (兵庫城跡碑) (同上・説明副碑)<参考>兵庫城・Wikipedia 池田恒興が天正9年(1581年)に築城した兵庫城の跡である。 池田恒興の兵庫城、片桐且元の片桐陣屋、尼崎藩の陣屋(兵庫津奉行所)などと名を変えつつ存続し、明治になって兵庫県庁が置かれるが、その移転後の明治7年(1874年)には、兵庫港拡充改修に伴う新川運河開削により、すべて取り壊された。その中心部はこの運河の辺りだそうだが、それを偲ばせるものは、この石碑のみである。 因みに、初代兵庫県知事は伊藤博文(慶応4年<1868年>5月3日就任、明治2年<1869年>4月10日退任)だそうな。 新川運河沿いに、さらに南に下り、県道489号の広い道に突き当たった右角にあるのが、清盛塚。 (清盛塚) (清盛塚石造十三重塔) (同上・説明副碑) 説明碑には「この石塔は、清盛の墓と言われていましたが・・調査で、墳墓でないことが確認され・・」と水をさすようなことが書かれている。 そもそも「墓」とは何であるのか。遺体や骨などを埋葬してこれを祀る場所に限定されるべきなのか。分骨墓などというものもあり、その態様は色々である。何らかの遺品を納め供養する施設も墓と呼んでいいなら、皆が墓と思い、そのような扱いをしているのであれば、それは墓ではないと誰が言えるだろうか。「お墓の前で泣かないでください。そこにわたしは居ません。」ということでもあるから、遺体が埋葬されているかどうか、もっと言えば、遺品などゆかりのものが埋葬されているかどうか、などでこれを区別することは無意味な気がしないでもない。 中央にあるのは、清盛の像。 神戸市出身の彫刻家、柳原義達氏の作だそうな。 (平清盛像) 像の右手にあるのが琵琶塚。 (琵琶塚) こちらは、その平面形が琵琶の形に似ていることから琵琶塚と呼ばれていたそうだが、説明碑には「(江戸時代から)琵琶の名手、平経正の墓と信じられていました。」とある。 経正は、清盛の弟・経盛の長男。敦盛の兄に当たる。 この後、敦盛の墓にも立ち寄るので、奇しき縁という奴である。 さて、下調べで、目に付いた兵庫大仏のある能福寺というのも立ち寄り先に予定していましたが、ヤカモチの思い込みで所在位置を勘違い、行き着くことができませんでした。 この寺には、平清盛廟や清盛供養塔の十三重石塔もあるとか。 地図をよく確認しないまま、清盛塚の前の県道489号を西に行った先の3~4番目の辻を右に入った所にあると思い込んでしまっていました。 実際には、清盛くんが居た入江橋の通りを西へ行った先の3~4番目の辻であったのでした。 これでかなり無駄な時間を費やしましたが、見つけるのを断念し、清盛塚に取って返し、その南側の清盛橋を渡って先へと進むことにしました。 (兵庫運河<新川>を渡る。清盛橋の上から。奥の橋は住吉橋) 橋を渡った先の左側に薬仙寺という寺がありました。 この寺はノーマークでしたが、「萱の御所跡」という文字が目に入ったので立ち寄ることとしました。 (薬仙寺) (同上・本堂) (同上・案内板) 先ず、萱の御所蹟碑。 (萱の御所蹟碑) 清盛が、対立することとなった後白河法皇を、福原に行幸させ、茅葺の家に幽閉したのだそうだが、それが兵庫港の近くにあったとされているとのこと。 この碑は寺の北東100m位の場所に建てられていたのだが、新川運河の拡張工事で、水没することになることから、当寺の境内に移設したものだそうです。 法皇を幽閉したのは、清盛の弟の平教盛の屋敷だそうで、その屋敷跡とされる場所が兵庫区の夢野町にあるらしく、実際の萱の御所はそちらの方だとする説が有力だとか。 夢野町は、湊川公園にある兵庫区役所から数百メートル北西に行ったところであるから、かなり内陸の方になる。 (同上・説明副碑) 境内には、大施餓鬼會日本最初之道場の碑や花山法皇の歌碑や後醍醐天皇の病を治癒した霊薬水湧出の井戸など色々なものがあり、ブログネタには事欠かないお寺でもあります。 しかし、さすがのヤカモチもいささか疲れましたので、写真だけ紹介して置きます。 (大施餓鬼會日本最初之道場の碑) (花山法皇歌碑) 有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風 (同上・副碑) (後醍醐天皇御薬水 薬師出現古跡涌水) (同上・説明碑) この後、和田神社、ノエビアスタジアムへと走りますが、そろそろどこかで昼飯も食わなければならない。 ということで、何が「ということ」なのかは分からぬが、今日はここまでとします。 なお、今日の立ち寄り先などを地図に落とし込んだものを作成しましたので、少し不器用な出来になっていますが、この先の立ち寄り先なども少し含ませて居り、心づもりにもなるのではと、参考までに、以下に掲載して置きます。 (参考コース地図 ハーバーランドから駒栄橋まで) (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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