偐万葉田舎家持歌集
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(承前) 前ページのつづきです。 白橿中学校の前からトレンクルで走る。 益田岩船は、以前、友人の蝶麻呂君との銀輪散歩で立ち寄った折のことを記事にしているので、パスします。 この巨石遺跡は、牽牛子塚古墳の横口式石槨と形状が酷似していることから、それ用に建造されたものだが、ひび割れが生じたため建造途中で放棄されたものとする説が有力になっているから、本来なら立ち寄るべきなのであるが、下掲の参考記事に写真などを掲載して居りますので、それで代用することとさせていただきます。 <参考>明日香銀輪散歩(その1) 2017.1.23. 北へと道なりに直進すると高取川に出る。 そこにあるのは、史蹟益田池堤跡。これも上掲参考記事に写真が掲載されていますが、ここで少し休憩をしましたので、同じような写真を1枚撮りましたので、掲載して置きます。 (益田池堤跡) (益田岩船、益田池堤跡位置図) 益田池堤跡を出て、高取川右岸の道を下流方向へと走る。 近鉄南大阪線を越える少し手前の処にあるのが軽樹村坐神社。 立ち寄って行く。 (軽樹村坐神社) 神社の入り口近くの民家のご婦人が、この付近は「かるこ」という地名だと仰っていましたが、それを教えていただいた時は「軽古」という漢字に脳内変換していて「軽樹」が「かるこ」と読むのだということに気づいたのはかなり後のことでした。 <参考>軽樹村坐神社・Wikipedia 古代の氏族・軽氏の祖先神を祀った神社らしいが、軽の里と言えば、人麻呂が妻の死を悲しんで詠んだ「泣血哀慟歌」に「天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば・・」(万葉集巻2-207)とあるので、これから人麻呂神社へと向かうのであってみれば、まあ、ご挨拶申し上げて置くのが礼儀であろうか(笑)。 (同上・拝殿) こじんまりとした神社である。拝殿かたわらには背の高い椿の木が沢山の花を咲かせていました。 天飛ぶや かるこの杜の 花椿 見らくしよしも 妹としあれば (偐家持) (同上・本殿) (軽樹村坐神社、安寧天皇陵位置図) 軽樹村坐神社を出て高取川沿いの道を北西に進んだ最初の辻で右に入り、近鉄南大阪線の踏切を渡ると安寧天皇陵。 安寧天皇陵も過去記事に掲載済みであるが、道路脇でもあれば、無視もならず、1枚撮影でありました。 (安寧天皇陵) 懿徳天皇陵も近くだが、これは少し逆方向に遠回りしなければならないので、「無視」でありました。下掲<参考>の過去記事に写真を掲載して居りますのでご参照ください。 <参考>明日香・橿原銀輪散歩(その2) 2014.3.20. ※この記事には、益田池堤跡やその近くの宣化天皇陵の写真も掲載されています。 安寧天皇陵を過ぎ、一つ目の辻で左折、再び高取川の右岸道路に出て、これを北上。大和高田バイパス高速道路の高架下を潜った処で、高取川とはお別れして県道207号を直進。五井町交差点に差し掛かって信号待ち。時計を見ると、昼飯時。左手を見るとローソンがある。 高取川畔の桜の下で昼食にしようと、お弁当を購入。温めて貰って、五井橋近くの川岸に陣取ってお弁当タイム。 川畔の桜並木は咲き始めているものもあったが、陣取った場所の頭上の木は、ようやく蕾が膨らんで今にも咲きそうであるが、まだ蕾という微妙な段階。 (高取川畔の桜) まあ、兼好さん風に「花は盛りを見るものかは」とうそぶいて「花より弁当や」とパクパク、ムシャムシャのヤカモチ。 視線を落とすとホトケノザ、ヒメオドリコソウ、コメツブツメクサ、オオイヌノフグリなどにまじってノボロギクが地味に咲いてもいる(笑)。 (ノボロギク) 昼食を済ませて西方向を見やると二上山の雄姿。 この付近から見る二上山は印象に残る美しい姿である。 高取川を渡って、東へ。突き当たれば歴史的建造物群の今井町である。 川を渡る手前の歩道脇に菜の花が満開。 (菜の花・橿原市五井町) 今井町も何度となく訪れているが、今回はそのヘリにある八幡神社にご挨拶だけして、パス。 (今井町の八幡神社) 八幡神社から北へ。 (入鹿神社、人麻呂神社位置図) JR線ガード下を潜って、正蓮寺境内の入鹿神社へ。 此処は初訪問。 (入鹿神社) 蘇我入鹿を祀る神社。 この付近一帯は古代には蘇我氏の領地であった地域。 曽我川、曽我町などの名が今に残る。 明治になって、政府から、逆臣・入鹿を祀るのは怪しからんとして、スサノオノミコトも祀るようになったとか。また、社名も入鹿神社をこの地域の地名に因み、小綱神社に改名せよと命じられたが、これは地域の住民が拒否したという。こういう精神は権力に迎合しない健全さを示すもので大いに結構なことである。 (同上・拝殿) (同上・本殿) 普通、本殿は玉垣その他で囲まれていて、外部者は近づけないものであるが、此処は玉垣の鉄柵扉が開け放されていて、本殿域内に立ち入ることができ、本殿前まで行くことができる。 もっとも、柵扉が開いているからといって、入っていいとは限らないので、ヤカモチが撮影のため立ち入ったのは礼儀を弁えぬ不埒な行為であったやも知れぬことではありますが・・。 伝説では、入鹿の母がこの地の出身で、入鹿も幼少期はこの地で過ごしたということらしい。 (同上・本殿説明碑) <参考>入鹿神社・Wikipedia 入鹿神社の北隣にあるのが、正蓮寺大日堂。
(正蓮寺・大日堂) <参考>かしはら探訪ナビ・正蓮寺大日堂 (同上・説明碑) 大日堂の東側にこんな碑がありました。 (小綱町の碑) この碑は、街道筋にあったお地蔵さんなどが道路整備によって移転を余儀なくされたのをこの地にまとめて祀ることになったので、これを記念しての碑のようであるが、この地、小綱町の「小綱」は「しょうこ」と読むらしい。 入鹿神社を出て、北へ。二つ目の辻を左折し、西に行くと桜池という大きな池に突き当たる。これを右に行くと正面に見えるのが人麻呂神社。 (人麻呂神社)<参考>かしはら探訪ナビ・人麿神社 人麻呂を祀る神社は沢山あるが、ここもその一つ。 この神社は、近鉄御所線の大和新庄駅の駅前にある柿本神社から分祀された神社と伝えられているという。その柿本神社は2011年1月に訪ねて記事にしていますので、下掲<参考>をご参照ください。 <参考>大和新庄・畝傍山周辺銀輪散歩(その1) 2011.1.10. (同上・説明碑) 境内には万葉歌碑がある。 (同上・社名標と万葉歌碑と拝殿) 歌碑の歌は、人麻呂の泣血哀慟歌の反歌のうちの1首である。 秋山の 黄葉を繁み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも (柿本人麻呂 万葉集巻2-208) (同上・万葉歌碑) (同上・拝殿) 人麻呂神社から桜池に戻り、池沿いの道を西へ。 天高市神社へと向かいますが、続きは明日以降にします。 (つづく) #Ukraine #ウクライナ
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プロフィール
けん家持
養老2年(718年)の生まれゆゑ、年令1306才(養老元年生れ説だと1307才)。銀輪歌人、偐家持(ニセヤカモチ)。若草の里の読書会に屯しています。時に「まっ黒の走子」。時に「偐定家」。時に「筆蕪蕉(不精者)」であります。また、時々は偐家持美術館のヤカモチ館長でもあります。自転車(銀輪)であちらこちらを気ままに散歩し、花を愛でたり、虫と遊んだり、万葉調の歌(と言っても大抵は戯れ歌)などを作ったりしています。
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