カテゴリ:銀輪万葉
ブログアップが遅れていましたが、先月29日、30日と長野を銀輪散歩して来ましたので、記事アップします。
長野は2008年7月以来なので、14年ぶりの訪問。 14年前は、上田市を中心に千曲川べりを銀輪散歩し、その帰りにちょっと立ち寄っただけであったので、今回は長野市内を銀輪散歩してみようというもの。と言っても、何処と言って訪ねたい場所はなく、犀川や千曲川べりなどを適当に走り、善光寺にも立ち寄ってみようという程度の、いささかポテンシャルの低い訪問でありました。 長野駅前のホテルで、宅配便で送って置いた自転車・トレンクルを受け取り、出発。 (JR長野駅) 駅の西方向に裾花川が北から南に流れていて、犀川に注いでいる。 先ず、裾花川に出て、その河川敷の道を走る。歩行者専用道とあり、自転車の乗り入れが可なのかどうかという疑問もあったが、殆ど人影もなかったので、これを走ることとした。 (裾花川) 裾花川河口手前で堤防上の一般道に上がり、犀川に架かる丹波島橋の手前で国道117号を横切って犀川沿いの道に入ろうとするが、車の往来が多く、渡れない。信号のある横断歩道は北に200mほど戻った荒木交差点。そこまで迂回して横断歩道を渡る。渡ったところにあったのが、大阪王将長野若里店。長野まで来て「なんで大阪王将やねん」と思ったが、既に正午を過ぎていたのでここで昼食。店の前が広い駐車場なので駐輪にも好都合。 長野駅前で昼食を済ませてから出発と考えていたが、駅前はどこも駐輪禁止で、駅前の郵便局の裏に駐輪しようとしていたら、駆けつけて来たおばさんにかなり強い口調で咎められたこともあって、加えて駅の駐輪場は反対側の東口の方にあるのみのようなので、嫌気がさして、駅前での食事は諦めて出発した次第。 昼食後、再出発。 (犀川第二緑地) 犀川河川敷に広がる犀川第二緑地を右手に見つつ、奥に見えている長野大橋へと向かう。 猛暑・炎天下の昼下がりとあって、広い緑地のグラウンドには人影なしであります。 国道18号・篠ノ井バイパスの長野大橋で犀川を渡る。 (犀川上流側を望む、長野大橋から) 長野はどちらの方向を見ても山、山である。 (犀川下流側を望む、長野大橋から) (国道18号・篠ノ井バイパス、大塚南交差点陸橋の上から南方向) 大塚南交差点で右側歩道から左側歩道に移る。 古戦場入口交差点を左折、200mほどで川中島古戦場公園。 公園の北西角から入ると、石碑。 (川中島古戦場公園) これは何の石碑かはよく分かりませんが、隣にあったのは首塚。 (同上・首塚) 川中島合戦の戦死者の遺体を敵味方の別なく手厚く葬った塚で、この付近にはいくつもの首塚があったらしいが、現存する大きな首塚は、この塚とここから南東180m付近にある塚の二つだけだとのこと。 (同上・首塚説明碑) どうやら、例によって裏口から進入したようで、ここは古戦場八幡社の境内地でありました。 (川中島古戦場八幡社) 奥が現在の本、拝殿。手前が旧本殿鎮座の鞘堂。 (同上・本、拝殿) (同上・ご由緒) 古戦場八幡社は、源顕清が、武運長久を祈って八幡大神を欅の大木の洞に祀ったことに始まるという。 <参考>源顕清・Wikipedia 顕清は、白河院の蔵人であったが、嘉保元年(1094年)8月、兄・惟清が白河院を呪詛したという事件に連座したとして失脚し、信濃(又は越前)に配流となっているから、その頃のことであるのだろう。 彼は、河内源氏の祖・源頼信の次男・頼清(村上氏の祖)の系統であるから、わが河内と関係がなくもないことになる。 武田信玄が、のちに川中島合戦で破壊された神殿を再建させたとのことだが、彼もこの八幡社に戦勝を祈願し、陣を置いたのであるか。 (川中島古戦場八幡原の碑) <参考>川中島の戦い・Wikipedia (川中島大合戦図) 境内の大合戦図を見ると、この古戦場公園のある場所は戦闘の行われた区域の北東の端っこになるから、上杉謙信が一騎駆けをして、武田信玄の陣に突入した、「鞭声粛々 夜河を渡る・・」の、あの有名な一騎討ちの場所はここではないのだろうが、境内にはその像が置かれている。 (信玄・謙信一騎討ちの像) 一騎討ち像と本殿の間にはこんな石もありました。 (執念の石) 一騎駆けで切り込んだ謙信は、信玄の近くに居た中間頭の原大隅が突き出した槍に阻まれて信玄を討ち損ね、「流星光底 長蛇を逸す」と残念がったのだろうが、原大隅もまた千載一遇の機会、槍を外してしまい謙信を打ち損ねたと悔しがって、この石に槍を突き立てたという。 彼もまた「長蛇を逸す」と残念がったのだろう。 (同上・説明碑) まるで、この場所で一騎討ちが繰り広げられたみたいであるが、まあ、川中島古戦場公園としたからには、一騎討ち像がなくては、画竜点睛を欠くということで、観光客は承知しないというものなんだろう。 そして、こんな歌碑も。 (川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑) 田中月亀という人のことは存じ上げなかったが、信濃松代藩第9代藩主真田幸教に仕えたということだから、江戸時代後期から明治時代初期にかけての人なんだろう。 跡しのぶ 川中島の 朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ (月廼亀麿) 月影の 入にし後も ほととぎす ひとこゑ残す 小島田の里 (月廼亀守) (同上・裏面) (同上・説明副碑) 月亀翁は存じ上げなかったが、芭蕉翁は存じ上げている(笑)。 芭蕉さんの句碑もありました。 (芭蕉句碑) (同上・説明副碑) 十六夜もまだ更科の郡かな (芭蕉・更科紀行) これは元禄4年の作。 芭蕉さんは、昨日の十五夜に続き十六夜の月もここで見たいと、更科の郡を立ち去りかねているようですが、ヤカモチは八幡社はもう十分と立ち去ります。 八幡社鳥居を出た先の参道で果物などの土産物を商っているおばさんと暫し雑談。 まあ、店の前の道路脇に灰皿が設置されているので、そこで一服しながらのことでありましたが、雑談だけでは申し訳ないと少しばかり売り上げにご協力させていただき、公園の南半分側へ。 (川中島古戦場公園) (同上) 上杉謙信像はお留守で、台座のみが・・。 像は修理中なのか。寺の仏像などは時に、〇〇展に出展とかで留守をされることもあるが、公園の像がそういうことで留守というのは考えにくいが、何処かへ出稼ぎに行かれたのであるか。 (同上) 少し木陰で体を冷やしてから、公園を出て、県道35号を南へ。 赤川交差点で、右に行くと武田信繁墓・典厩寺という案内板が目に入ったが、信号が赤で横断できないのでそのまま直進。猛暑の中を走っていると、判断力も忍耐力も低下するようで、惰性のように直進するのみ。 これが気候のいい時なら、武田信繁と言えば信玄の弟で、川中島合戦で討ち死にした人物なのであるから、墓にご挨拶くらいはしたのではないかと思う(笑)。 松代大橋にさしかかる。 (松代大橋) (千曲川下流側を望む・松代大橋から) 長野IC手前で県道35号から脇道に入って、千曲川沿いの道を走る計画でいたが、何やら方角が混乱して道に迷う。 国道403号(谷街道)に出たので、これを左折し、北へと進む。 JAグリーン長野の南側で国道403号に出たが、これは当初想定していたコースからは随分南東に来過ぎてしまっていることになる。 JAグリーン長野の前の自販機で飲み物を買って水分補給。 (R403・谷街道) 国道403号を走っている途中あたりから、左足足底の指の付け根付近が疼きだし、時々痛みがキリキリと強くなる。 自己診断で足底筋膜炎としている症状である。 柴交差点の寺尾小学校の前で少し休息するが、痛みは消えない。 更埴橋の手前で千曲川沿いを少し走ってという計画は省略して、更埴橋を渡る。 (更埴橋南詰) (更埴橋北詰) 更埴橋を渡って道なりに直進すると、不動寺交差点で先ほど走って来た国道18号・篠ノ井バイパスに出る。これを長野大橋方向に走り、長野大橋手前で犀川沿いの道に入って、落合橋の先で、犀川と千曲川の合流点を見届け、更に下流の屋島橋で千曲川を渡って、長野駅前までというのが計画コースであったが、足に不安が生じたので、長野大橋手前から川沿いの道に入るという計画はカットし、直進して長野大橋をそのまま渡ってしまい、概ね来た道を逆に辿って、駅前に帰ることにする。 (公園の合歓の木) 方向感覚だけを頼りに走っているので、予定コースを外れると、どの辺りに居るのかがあやふやになる。 犀川第二緑地の近くの公園に出たので、そこで暫く休憩。 足底がかなり痛い。 大きな合歓の木が花をつけている。 大阪でこの夏、合歓の花を見たという記憶がないから、今年初めて見る合歓の花である。奥にあるのは水神宮。 公園を出て道を直進すると、来る時に昼食した大阪王将の裏側に出た。どうやら方向感覚は鈍っていなかったよう。荒木交差点で国道117号を横断して、西へ。裾花川沿いの道に出て、無事に長野駅西口駅前のホテルに帰着。 <参考>過去の千曲川銀輪散歩の記事 千曲川銀輪散歩・岩鼻 2008.7.24. 千曲川銀輪散歩・岩鼻(2)・上田城公園 2008.7.24. 千曲川銀輪散歩・信濃国分寺・海野宿 2008.7.25. 千曲川銀輪散歩・小諸懐古園 2008.7.25. 千曲川銀輪散歩・上山田万葉公園・千曲川自転車道 2008.7.25. (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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