カテゴリ:銀輪万葉
(承前)
最終日(11月4日)、ホテルからトレンクルを宅配便で送り返し、帰阪であります。 時間に余裕があるので、少しばかり周辺を散策。 (温泉舎<ゆのや>) 温泉舎は「湯田温泉のビジュアル化」をコンセプトに設けられた施設。 地下500mから湧き上がる湯田温泉の源泉を見ることができるタンクで、のぞき穴からそれを見ることができる。 湧出量は毎分125リットル、温度約62度とある。 泉質は、アルカリ性単純泉・PH9.5である。 湯田温泉には7つの源泉があるそうだが、ここはその一つ。 (同上・飲泉場) (同上・源泉から湧き出しているお湯が温度計の中に見える。) (同上・説明板) 説明板には、湯田御茶屋の鳥瞰図とその説明が記されている。 説明文は、写真をクリックして表示される特大サイズ写真で何とか読めるが、その画像の右上にある「元画像」とある処をクリックすると、更に大きいサイズの写真が開くので、それでお読みいただくといいでしょう。 下部には湯田温泉ゆかりの人物、木戸孝允、井上馨、種田山頭火、中原中也の4名が簡単に紹介されている。 (同上・足湯ではなく、源泉からのお湯が流れる小川のモニュメント) 足湯かと思ったが、錦川通りを流れていた川をイメージしたお湯の流れる小川のモニュメントだとのこと。 早とちりして足を浸けなくて良かった。尤も、小川も子どもの頃は魚などを捕まえるべしで、裸足になって足を踏み入れたものであるから、立ち入り禁止の表示がなければ、自由に足を浸してもいいのではないかとも思うが。 (同上・中原中也ゆかりの宿・西村屋の松) <参考>西村屋・Wikipedia 中原中也が結婚式を挙げた旅館・西村屋の玄関先にあったという松が、ここに移植されている。数年前に西村屋が倒産、廃業して無くなってしまったが、松だけは此処に引っ越して来て、西村屋をしのぶよすがとなっているようです。 (同上・西村屋の松説明碑) (同上・生目通り側から) 温泉舎の裏手になる東側の通りは生目通り。 生目通りに出て右に行くと錦川通りに出る。中也ゆかりの宿・西村屋のあった場所の北側の通りである。これを東に進むと、こんな看板が目に入った。 (お茶屋臨野堂跡) 上の写真の左端に写っている道路が錦川通り。 緑色の工事仮囲いシートの背後に立体駐車場が見えるが、その辺りからこの臨野堂跡地の「磯くら」の道向かいにある住宅の背後にかけてが、西村屋のあった場所かと思う。 (同上・由来説明碑) 萩に城を構えた江戸時代の毛利氏は、山口に客館、湯田にお茶屋を設けて、藩主の休息所とすると共に、他藩からの来客の接待所にしていたとのこと。幕末期には、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎など勤王の志士の密議の場にもなったという。 温泉舎に描かれていた湯田御茶屋と臨野堂との関係がイマイチよくわからんが、湯田御茶屋の一部が臨野堂ということなのか。 中也銀輪散歩とて、長州だの薩摩だの幕末・維新のことなどはつい忘れてしまっていたのだが、ここは長州なのだとあらためて思った次第。 道の斜め向かいには、瓦屋跡の碑があって、坂本龍馬の像もあったりするのでした。 (史蹟・瓦屋跡碑) 瓦屋というのは、瓦を作っていたのではなく、此処にあった旅館の屋号であるようです。現在、隣が松田屋ホテルであるから、瓦屋の後身旅館が現在の松田屋であるかと思ったが、松田屋ホテルの公式サイトを見ると次のように説明されている。 「瓦屋」とは湯田温泉の「松田屋」に隣接していた瓦ぶき二階建ての旅館でした。 江戸当時、湯田の町ではほとんどの建物が藁ぶきでしたが 藩主のお茶屋と瓦屋だけが瓦ぶきだったといわれ、屋号もそこに由来しています。 瓦屋も松田屋ホテルも老舗旅館にて、勤王の志士たちがよく利用した宿であったという次第。 瓦屋跡碑の隣の「山田顕義と瓦屋」という碑には、維新の戦での軍人としての功績が認められ、明治新政府に於いて、初代司法大臣となった山田顕義の妻はこの瓦屋旅館の長女・龍子であると書かれている。 また、日本大学の創立者はこの山田顕義であるとも書かれている。日大と湯田温泉との意外な関係であります。 碑の後ろに見えているのが龍馬さんです。 (龍馬像) 龍馬さんは「わしゃ、土佐じゃきに。」と言っておられますが、山口龍馬会が建立されたもののようです。薩長同盟成立に奔走した坂本龍馬も、この瓦屋や松田屋に宿泊し、またお茶屋「臨野堂」で密議をこらしたのであってみれば、龍馬さんは此処に立っていなくてはならないのかも。 しかし、野外での立ち尽くしは「ちっくと、こたえるぜよ。」と脇の角柱に寄り掛かって居られます。因みに、背後の「影」は描かれたもので、本物の影ではありません。 この瓦屋、松田屋と道を挟んであったのが西村屋。その玄関はどちら側にあったのか存じ上げないが、ネットで「在りし日の西村屋」の写真を探すと、こんなのが見つかりました。 11年前に友人の、偐山頭火氏が宿泊された頃の西村屋はこんな風であったのでしょう。 (在りし日の西村屋) (同上)※左端に枝が見えるのが温泉舎に移植された松の木のそれであるか。 さて、その西村屋跡と瓦屋跡・松田屋ホテルの間を南北に通じている道が元湯通り。元湯通りを南に行くと、県道204号・湯の町街道である。これを渡ると、道の名は湯の町通りに変わり、東側に中原中也記念館、西側に観光回遊拠点施設「狐の足あと」という観光交流施設がある。 (狐の足あと) 此処は、初日(11月1日)に中原中也記念館を見学した後も、珈琲休憩した場所であるが、この日も此処で珈琲休憩です。 店の外にテラス席がある。灰皿が置いてあり、其処では喫煙も可能ということなので、ヤカモチ向きであります。 中也記念館の方を眺めながら、珈琲。初日の時は、丁度、小学校の下校時間帯に当たっていたので、目の前の湯の町通りを、下校の小学生が通って行く。遠くで、犬がワオーンと遠吠えする声。すると、中也記念館の陰から現れた、ランドセルを背負った男の子が、「ワオーン、ワオーン」鳴きまねをする。ヤカモチも「ワオーン」と鳴くと、目が合ってニッコリ。何やら嬉しそうに「ワオーン、ワオーン」と言いながら去って行きました。 中原中也の詩に「サーカス」というのがあって、「幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました」で始まるそれには、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というフレーズが繰り返し出て来るのであるが、その「ゆあーん」を思い出したりも。 すると、今度は男の子のランドセルに背後から揃えて伸ばした両手を乗せて女の子が続くという形で、「ギーッコン」だったか「ガタン、ゴトン、ギー」だったか、何やら声を合わせて発しながら、踊るように拍子をとりつつ、「汽車汽車シュッポシュッポ」のようでもあり、それとは違うようでもある、ご機嫌な風に行く二人が現れた。 これも中也の何かの詩にあったようなフレーズを連想させたのだが、それが何の詩で、どんなフレーズであったかは思い出せぬまま、そのご機嫌な二人を見送りました。 この日はそのような光景もなく、井上公園から、公園通りを通って、ブラブラと歩きながら、湯田温泉駅へと向かいます。 湯田温泉には、無料の足湯が6ヶ所あるらしい。 先ほど立ち寄った温泉舎のそれも足湯みたいに見えたが、湯田温泉駅や井上公園にあるのは、その無料の足湯である。 (井上公園の足湯) 上の写真は4日のものではなく、1日に撮影のものです。 同じく、1日に撮影の井上公園での写真がもう1点あるので、ついでに掲載して置きます。 (所郁太郎顕彰碑)<参考>所郁太郎・Wikipedia 所郁太郎という人は存じ上げなかったが、緒方洪庵の適塾出身の医者で、井上馨が刺客に襲われて瀕死の重傷を負った際に治療にあたってその命を救ったという人物。井上馨の銅像の隣に顕彰碑が置かれているのも頷ける。 湯田温泉駅到着。 中也の「夏の日の歌」にある「田舎の驛」はこの湯田温泉駅のことだそうな。 夏の日の歌 (詩集「山羊の歌」所収) 青い空は動かない。 雲片一つあるでない。 夏の眞晝の静かには タールの光も清くなる。 夏の空には何かがある、 いぢらしく思はせる何かがある、 焦げて圖太い向日葵が 田舎の驛には咲いてゐる。 上手に子供を育てゆく、 母親に似て汽車の汽笛は鳴る。 山の近くを走る時。 山の近くを走りながら、 母親に似て汽車の汽笛は鳴る。 夏の眞晝の暑い時。 (湯田温泉駅 「中也と歩く湯田温泉マップ」より) 今日は夏の日ではなく秋の日。秋の空には何があるのか。 駅には、焦げて図太い向日葵は、咲いてはいない。 駅の足湯が所在なげにしている。 予定していた列車よりも一つ早いのがやって来たので慌ただしく乗る。 山の近くを走る時も、汽笛の音はない。 新山口駅到着。 (新山口駅 新幹線ホームから) 一番奥が山口線のホーム。 カメラを右に振ると・・。 (同上) のぞみがやって来ました。 乗車します。 以上で、中也銀輪散歩終了です。(完) <参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。 <追記>「湯田温泉駅、中也と歩く湯田温泉マップ」のイラストと過去記事「銀輪万葉・中国、四国篇」のリンクを追加記入(2022.11.19.) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[銀輪万葉] カテゴリの最新記事
|
|