カテゴリ:銀輪万葉
9月27日~28日、埼玉県行田市を銀輪散歩してきました。
フォト蔵のトラブル解消の遅れで記事アップを差し控えていたところ、優先アップすべき他記事がやって来りもして今頃の記事アップとなってしまいました。本日より3回に分けて記事アップしますので、お付き合いください。 上越新幹線熊谷駅から秩父鉄道に乗り換えて、行田市駅下車。 (秩父鉄道・行田市駅) 行田市駅は無人駅。 先ず、忍城バスターミナル観光案内所に向かう。 通常は、小型折りたたみ自転車トレンクルを持参して銀輪散歩というのがヤカモチのスタイルであるのだが、今回はこれを持参せずレンタルサイクルで回ろうという計画。 忍城バスターミナル観光案内所で自転車が借りられるのである。 (忍城バスターミナル観光案内所) 駅前から忍城バスターミナル観光案内所までは、徒歩10分程度の距離である。スポーツタイプのクロスバイクを借りたかったのだが、キーが掛けられないらしく、今回は27日~28日の1泊2日で借りるので、夜間は宿泊ホテル前に駐輪して置く関係で、キーが掛けられないのでは、盗難の心配もあり、無理。ママチャリを借りるしかない。 1日借りて500円。2日分で1000円。トレンクルを宅配でホテルに送ると往復で4000円余を要するので、随分と安上がりではある。 それはともかく、10時50分過ぎ、借りる手続きを済ませてママチャリで出発である。 先ず、向かったのは、忍城址・行田市郷土博物館。 行田市郷土博物館は、忍城本丸跡地に昭和63年(1988年)2月に開業したもので、忍城に関するもの、さきたま古墳群に関するもの、行田足袋に関するものなどが展示されている。 <参考>行田市郷土博物館 行田市郷土博物館・Wikipedia 行田市役所と行田市産業文化会館との間の遊歩道を西に抜けると、このような門がありました。 (忍城三階櫓への道) 門内に入ると忍城址案内図や古地図、付近見取り図などの掲示があり、これを抜けると三階櫓の前に出る。 (忍城址案内図) (忍城今昔地図) (付近見取り図) はい、三階櫓であります。 (忍城御三階櫓) 現在の三階櫓は、郷土博物館の開館に合わせて復元された模擬建造物であり、元の御三階櫓は現在の水城公園付近にあったとのこと。 (城門) 城門を入ると忍城の由来が書かれた説明板。 忍城は、文明10年(1478年)頃、成田顕泰により築城された難攻不落の名城であった、とある。 天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らによる水攻めにもよく耐えたが、小田原城が降伏・開城したことによって、忍城も開城したとのこと。 <参考>忍城の戦い・Wikipedia (忍城の由来) (忍城の鐘の碑) (忍城の時鐘) 「この鐘は、松平忠雅(ただまさ)が山形から備後福山(広島県)を経て桑名へと三度の移封の後に安住出来たのを記念して、享保2年(1717)11月1日に造られました。それから38年後の宝暦5年(1755)1月12日の大火で、城の中外の300余軒を灰にし、鐘も火災で割れてしまいました。現存するこの鐘は、子の忠刻(ただとき)が、父の愛した鐘を失った事を嘆き、宝暦14年(1764年)に再鋳したもので、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い、忍城へ移されました。明治時代の郷土史家・清水雪翁が著した北武八志には「今現に忍城にありて日々時を報する者即ち是なり。曽て総州候が伊勢桑名治城の時、鋳造するものなり」と記されており、忍城に由緒深い名鐘です。 (板碑) (板碑の形態) (忍城のジオラマ) 三階櫓は、水城公園付近に建っていたとのことであるから、右下部付近が現在の水城公園ということになるか。 中央上部が本丸御殿。その背後の森は、現在の諏訪神社・東照宮ということになるか。 (忍城本丸御殿) (行田市郷土博物館パンフレット) (同上) こちらは、行田足袋のコーナー。 (足袋の製作についての展示) 足袋のラベルも、何やらマンホールの図柄と同じで、こうして一堂に並べてみると面白い。 (足袋のラベル) 足袋を履いたのいつのことであったやら。 子どもが小さかった頃、着物姿で子どもを抱っこしている若い頃のヤカモチの写真があるから、その頃は着物を着たりもしていたようだ。足袋も履いていたのだろう。何処か箪笥の奥に眠っているのだろうが、着物も足袋も見かけなくなって久しい。 (足袋の歴史・行田市郷土博物館編集発行) (同上) そして、突然に万葉歌碑の写真。 (万葉歌碑) 今回は、稲荷山古墳を見るべしで、やって来た銀輪散歩。 万葉歌碑のことは、念頭になかったので、言わば不意打ちという感じであるが、これで「銀輪万葉」の面目も立つというものである。 しかし、前玉神社は、この後訪問するので問題ないが、「埼玉の小崎の沼」とか、防人の藤原部等母麻呂の歌碑があるらしい八幡山古墳などはその所在地が分からないのでパスしました。帰宅後に調べると、ちょっと足を延ばせばよかっただけであったので、残念なことをしました。 それはさて置き、左側2首は前玉神社のところで紹介することとし、右側の防人の歌を紹介して置くこととします。 足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも 色深く 背なが衣を 染めましを 御坂賜らば まさやかに見む (八幡山公園の万葉歌碑) さて、博物館ではマンホールカード交付の受付もしていました。 ヤカモチは、岬麻呂氏が送って下さるマンホールカードをブロ友のひろみちゃん氏にお渡しするばかりで、自身が彼女のためにマンホールカードをゲットするということはこれまでありませんでした。いい機会なので、ヤカモチも1枚位は自身でゲットしても罰が当たるまいと、受付の女性にその旨申し出てゲットしたのが、下掲のマンホールカードであります。 (行田市のマンホールカード) 博物館を出て、さきたま古墳公園に向かいます。 水城公園は翌日に立ち寄ることとし、公園手前の交差点で左折、清善寺の前を通って県道77号に移る。これを南へ。600mほど南へ下ったところで、脇道に入ると、佐間天満宮というのがあった。 (忍城佐間口・佐間天満宮) (佐間口説明碑) 此処は、忍城の南東隅に当たるようだが、天正10年の「忍城の戦い」では、忍城城主・成田氏長の家臣、正木丹波守利英がここを守ったらしい。 (佐間天満宮) 脇道はすぐに県道77号に合流する。 次の高源寺交差点までは道の右側を走っていたので、左側にあった高源寺の山門には気が付かず通り過ぎてしまったが、山門脇には正木俊英の墓碑があるとのこと。 500m余南に下ったところに台湾料理福府という店があったので、そこでランチタイム。 昼食後、更に500mほど進むと妙音寺という寺があったので立ち寄る。 (妙音禅寺) (同上・本尊の由来) 途中、宿泊予約しているホテルに荷物を預け、身軽になって再出発。 さて、ママチャリに乗ることは滅多にないので、勝手が違う。 自転車に乗っている姿勢の違いが原因だろう。 クロスバイクやマウンテンバイクなどのスポーツ車はハンドルの位置が低いので、前かがみになって走るが、ママチャリはハンドル位置が高く、背筋をのばした姿勢でペダルをこぐことになる。 その結果、身体が覚えている動作に齟齬が生じ、何やら意気が上がらないのである。チンタラチンタラ走っている感じで、疾駆しているという爽快感がない。まあ、疾駆する必要もないので、構わないのであるが、イマイチ気分が乗ってこない。 (さきたま古墳公園) はい、さきたま古墳公園に到着です。 正面入口はコチラなのですが、手前からの裏口入園であります。 (さきたま古墳公園・正面入口) (同上・パノラマ撮影) 先ずは、丸墓山古墳へ。 (丸墓山古墳) (同上・説明碑) (同上・南側) 中学生だろうか。高校生だろうか。一団の群れが賑やかに墳丘を上って行く。反対側に回って、カメラを構えたら、その一団が早くも下って来たのでありました。人影の写っていない写真を撮りたかったのだが、観光地ではそうはいかないということです。 (同上・北側) 天正10年の忍城攻めでは石田三成はこの丸墓山古墳の上に本陣を置いたというので、墳丘上から忍城方向を眺めてみた。 その頃の三階櫓は水城公園付近にあったというから、もう少し左寄り手前の位置になるのだろうが、石田三成もこんな風な三階櫓を眺めていたのだろうと思うと愉快。 写真は望遠ズームアップで撮っていますので、肉眼ではこれほど大きくは見えません。 (丸墓山古墳墳丘上から忍城遠望) (丸墓山古墳墳丘上から稲荷山古墳を望む) 墳丘の反対側から見えるのは稲荷山古墳。 今回は、この古墳を見に来たのでありました。 (稲荷山古墳)<参考>稲荷山古墳・Wikipedia (同上・説明碑) (同上・埋葬施設説明碑) (同上・出土品説明碑) 稲荷山古墳と言えばこの鉄剣である。 (金錯銘鉄剣) <参考>稲荷山古墳出土鉄剣・Wikipedia (同上・出土状況) この後、道なりに走っていると、古墳公園から外れて、古代蓮の里の方向に進んでしまったので、帰途にもう一度古墳公園に戻って来ることとし、古代蓮の里に向かうことに。ということで、以下はページを改めることとします。(つづく) <参考>銀輪万葉・関東編の過去記事はコチラ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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