カテゴリ:近隣散歩
昨日(22日)、若草読書会の新年会でヤカモチが担当する万葉講話に使用するレジメを印刷しようとしたら、コピー用紙が足らないことが判明。
これを買い求めるため、石切にあるホームセンター、コーナンまでMTBで出かけることとした。 ついでに先日の健康診断の肺がん検診のために採取した痰を石切生喜病院の検診センターまで届ける。 少し早い時刻であったが、病院向かいの喫茶店・ペリカンの家で昼食を済ませ、付近を少し銀輪散歩することにした。 恩智川沿いに北へと走り、加納緑地を過ぎて大東市に入ってすぐのところに御供田公園という公園がある。 地元の人たちがその公園のグラウンドでゲートボールを始めようとされているところでありました。 公園を北へと通り抜けて少し西に入ったところに、八幡神社があったので立ち寄ってみた。 (御供田八幡神社) 鳥居には八幡神社という扁額が架かっているだけなので、ナニ八幡神社であるのかは不明であるが、この地区の地名が「御供田」であるから、先ほどの公園にならって「御供田八幡神社」として置く。 (同上・拝殿と本殿) (同上・拝殿内風景) 拝殿のガラス窓越しにカメラを向けると、奥に本殿が見えています。 (同上・由緒) 拝殿脇に掲示されている「八幡神社縁起」によると、1655年頃に石清水八幡より分霊を勧請したものであるとのこと。 この地域は、昔は岡野村という呼称であったが、その岡野家所蔵の古文書には、次のように記載されているという。 「河内国讃良郡御供田村いにしへは岡野村と号す。石清水八幡宮の社領となりしより御供田村と名を改む。岡野浄忍入道、性は紀氏なるが故に八幡宮を勧請し、一村の氏神とす(中略)七十代後冷泉院の御宇、八幡太郎源義家奥州の朝敵を誅し上洛の後、石清水八幡宮へ御供田村を寄附したまふ。よって村名となる事しかり」 大阪府史によれば、当地は鵠森神社の社領であったと誌されているが、いつ頃の時代かは定かではない、とのこと。 御供田とは、神仏にそなえる米を作る田のことであるが、これが地名となっている地は各地にあるようです。また、人名(名字)にもなっていますが、読み方は「ごくうでん、ごくでん、ごくだ、おともだ、おくだ」など色々のようです。大東市の此処では「ごくでん」と読みます。 (同上・旧鳥居の石柱の一部) 現在の鳥居の左脇には旧の鳥居の一部が残されていますが、旧の鳥居は、明治4年(1871年)に恩智・秋岡両家によって奉献されたとあり、現在の鳥居は平成26年(2014年)3月に建立されていますから、143年の寿命であったことになる。耐震設計上何らかの危惧があったのかもしれない。 参考までに、この八幡神社の所在位置を地図で示して置きます。 (同上・位置図) それほど広くはない境内であるが、大東市が保護樹木に指定している樹木が3本存在している。 (同上・保護樹木、ムクノキ第35号) これは、神社・社務所の南隣にある木。 もう一本のムクノキは境内南西隅にある。 (同上・保護樹木、ムクノキ第5号) もう一本の木はイチョウで、本殿北西脇にある。 (同上・保護樹木、イチョウ第24号) 帰宅後、レジメの印刷を完了し、新年会の講話の下準備は、一応できました。もっとも、どんな話の展開とするかは、未だ決めていないので、当日の成り行きに任せることとします(笑)。 <参考>近隣散歩関連過去記事は下記です。 近隣散歩(その1) 2009~2013 近隣散歩(その2) 2014~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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