カテゴリ:銀輪万葉
(承前)
前記事の続編です。曽束大橋を渡って対岸の道に入ったところで、前記事が終わりましたので、そこから始めます。 <参考>曽束大橋を渡った左岸の道から天ケ瀬ダムまでの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(わが庵は都のたつみ) 2014.3.13. 地図で見ると曽束大橋手前1kmほどの地点から喜撰山大橋の手前800mほどの地点までは、瀬田川が滋賀県と京都府との境界になっているようです。 従って、曽束大橋は右岸京都府と左岸滋賀県との間をつないでいる橋ということになります。右岸の道は曽束大橋を渡る手前1km付近から京都府の府道3号になっていて、橋を渡った先の左岸の道は再び滋賀県の県道3号ということになる。 曽束大橋を渡ってしばらく行くと、上の<参考>記事に掲載の写真にあるように、眼を射るような鮮やかな黄色のトラトラの道が展開するのであったが、それは10年前のことで、今回目にしたのは、それらの塗装が褪色して目立たぬくすんだ色に変化し、加えて所々摩耗したり剥がれたりもしているという、何ということもない道になってしまっていました。 写真に撮って現在の姿と10年前の光景とを比較してみれば面白かったかもしれないのだが、撮影せぬままやり過ごしてしまったので、後の祭りであります。 (瀬田川左岸の道) 宇治11km、天ケ瀬ダム9kmという標識のある地点までやって来ました。この先喜撰山大橋の先から、瀬田川は宇治川と名を変えるようです。 (コース地図4・喜撰山大橋からJR宇治駅まで) 喜撰山というのは、喜撰法師に由来する名称。 喜撰法師は六歌仙の一人とされるが、伝記など不詳の御仁。 紀貫之の変名という説などもあり、正体不明。 古今集仮名序に「宇治山の僧喜撰は、ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし」とその歌風が評されている歌人であるが、紀貫之の変名であるなら自分で自分を評したことになり、愉快と言うほかない。 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (喜撰法師 古今集983、小倉百人一首8) <参考>喜撰・Wikipedia しかし、喜撰山大橋もその下流側にある吊り橋、大峰橋も今回は撮影していない。上記<参考>の10年前の記事に写真を掲載していますので、ご参照ください。 ということで、次の写真は、宇治川に左側から流れ込んでいる田原川に架かる宵待橋になります。 (宵待橋) 宵待橋を渡ったところで振り返って撮ったのが上の写真。 宇治川左岸の道からこの田原川の道に入り、つまり上の写真に即して言うと、画面の奥・左手からこの橋にやって来て、こちら岸の道を画面左手に進み、再び宇治川左岸を川下へと進むのが正しいコース。 ここで、タバコ休憩をしていると、右手から例のカナダ人二人組が現れたのである。 この橋をこちらに渡り右折して、写真画面左手に行くべきところ、彼らは左折して、写真画面右手に、つまり反対方向に進んでしまったようです。 こちら岸の道は、この橋から左が府道3号、右が府道62号。彼らは府道62号を田原川沿いに上流へと進んでしまったようです。府道62号は国道307号に突き当たり、国道307号は京田辺から枚方方面へと通じている道である。どの付近で道を間違えたと気づいたのだろう。 少しばかり言葉を交わし、彼らを見送ってからゆっくりとヤカモチも出発であります。 (天ケ瀬ダム) ほどなく、天ケ瀬ダムが見えて来ました。 10年前はダムを見学しましたが、今回はパスして、坂道を走り下る。 宇治の市街へと入ったところで、源氏物語宇治十帖宿木之古蹟という碑がありました。この碑については前回10年前の銀輪散歩の折にこれを撮影した記憶があったので、今回は撮影しないで置きました。帰宅後調べてみると確かにその写真がPCに残っていました。 ということで、その10年前の写真を掲載して置きます。 (源氏物語・宇治十帖・宿木之古蹟) (同上・副碑) 近くにあったマンホールは撮影しましたが、この図柄のマンホールは既にマンホールシリーズ記事にて紹介済みでありました。 (宇治市のマンホール) マンホールのことはさて置き、宇治十帖古蹟の碑は10年前に撮影したものが他にもあるので、ついでに掲載して置きます。 (源氏物語・宇治十帖・総角之古蹟) (同上・早蕨之古蹟) (同上・椎本之古蹟) (同上・副碑) <参考>宇治十帖・Wikipedia 全10ヶ所が揃ったところで記事にアップしようとでも考えて、これまでブログに掲載しないまま、写真を保存していたものと思われるが、10年を経過しても一向に進展しなかったということは、その気にならなかったということでしょうから、現状あるままの在庫で記事掲載ということにいたします。 <参考>蛍塚から宇治神社までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(もののふの八十宇治川の) 2014.3.14. (宇治散策案内図) はい、宇治川の中洲の島、塔の島に架かる喜撰橋の前に出ました。 中洲の島は二つあって上流側が塔の島、下流側が橘島である。 塔の島は喜撰橋によって左岸とつながり、橘島は橘橋によって左岸と、朝霧橋によって右岸とつながっている。 (喜撰橋) この辺りから10年前の銀輪散歩とは異なるコース取りとなります。 前回は、橘橋を渡って、中洲の島・橘島に渡り、宇治神社、宇治上神社を経て仏徳山(大吉山)展望台まで登り、下山して宇治彼方神社、菟道稚郎子墓、下居神社と巡ってJR宇治駅ゴールというコース取りであったが、今回は島には渡らず、宇治川左岸の土手道を直進でありました。 <参考>宇治上神社からJR宇治駅までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き) 2014.3.15. 前回は、宇治の万葉歌碑を巡るというテーマがあっての散策でしたが、今回はそういったものはなく、平等院も時刻からみて入場できる筈もないので、何という当てもないそぞろ歩きである。 (宇治川 対岸左手の山が仏徳山<大吉山>である。) 土手道から細い路地を抜けて、平等院参道に出る。 さすがに参道は大勢の観光客。店の前の空間に椅子席やテーブル席を備えた店が目にとまる。ここなら押して歩いている愛車トレンクルを駐輪する場所もある。そこで抹茶ソフトを食べている観光客の姿につられでもしたか、ヤカモチもこれを買い求め、店先の椅子席でこれをいただくこととする。 参道を出ると宇治橋。 その一角は、宇治十帖に因み「夢浮橋ひろば」と名付けられているようです。 (夢浮橋ひろば) そこにあるのが紫式部の像。 (紫式部像) (同上・副碑) そして、夢浮橋之古蹟の碑。 (源氏物語・宇治十帖・夢浮橋之古蹟) (同上・副碑) 以上、紫式部、夢浮橋之古蹟碑、宇治橋の3点セットの写真がこれであります。 (3点セット写真) (明治天皇御駐輦之地碑) 紫式部像や夢浮橋之古蹟碑に取り囲まれる形で、これらとはいかにも不似合いな感じで明治天皇御駐輦之地碑が建っている。この碑が先にあって、源氏物語関係の像や碑がその後に設置されたということなんだろう。 (宇治橋) (同上・説明碑) 宇治橋を渡り、右岸へ。 宇治橋を渡る頃には、もう午後5時になろうかという時刻。 (宇治橋から橘島に架かる朝霧橋<左>、橘橋<右>を望む) 京阪宇治駅の左奥にあるのが、大河ドラマ館。 入館料などは必要とせず自由に入館できる施設のようだが、既に午後5時を過ぎていて、営業終了、閉館していました。 (光る君へ・大河ドラマ館) 大河ドラマ館の裏手にあるのが、菟道稚郎子の墓。 彼は、応神天皇の皇子。仁徳天皇の異母弟である。 応神天皇没後の、菟道稚郎子・仁徳天皇・大山守三者の関係などは、上記<参考>の過去記事「瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き)」または下記<参考>の「菟道稚郎子・Wikipedia」をご覧ください。 (菟道稚郎子尊宇治墓)<参考>菟道稚郎子・Wikipedia 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 妻松の木は 古人見けむ (<妹らがり>今木の嶺に茂り立つ妻を待つという松の木は、昔の人も見たであろう。) (注)古人=今は亡き菟道稚郎子を指す。 (同上) 菟道稚郎子墓に隣接する場所に浮舟宮跡という石碑が建てられている。 源氏物語・宇治十帖の浮舟の君を祀った古社が、かつてこの付近にあったらしい。 (浮舟宮跡碑) (同上) (史跡 宇治川太閤堤跡碑) 宇治川太閤堤跡の碑と大河ドラマ館の間をトレンクルで走り抜けて宇治橋に戻り、JR宇治駅へと向かう。 (JR宇治駅前、茶壷型の郵便ポスト) はい、JR宇治駅前広場のユニークな茶壷型郵便ポストに迎えられて、今回の銀輪散歩は終了であります。(完) <参考>過去の銀輪万葉・京都府・滋賀県篇は下記参照 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その1) 2007年7月~2019年3月 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その2) 2019年7月~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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