カテゴリ:銀輪万葉
ブロ友のひろろさんの個展を拝見したことは、6月20日の記事に書きましたが、そのついでに付近をプチ散策しましたので、遅ればせですが、そのご報告記事であります。
<参考>ひろろさんの個展に行って来ました 2024.6.20. 会津若松は、昨年11月以来であるが、この時は小出駅から会津若松駅まで只見線に乗ることと翌日会津柳津を散策するというのが目的の旅で、会津若松は宿泊地として利用しただけ。 <参考>只見線・小出から会津若松へ 2023.11.12. また、2012年9月には、裏磐梯銀輪散歩の行き帰りに会津若松駅を通過しているが、乗り換え駅として利用しただけで、この折も市内散策などはしていない。 <参考>裏磐梯銀輪散歩<1> 新潟から猪苗代まで 2012.9.28. 市内を散策したのは、2011年4月以来ということになる。 <参考>越後・会津銀輪散歩 2011.4.23. もっと古くは、2001年6月に東山温泉に宿泊して、市内を銀輪散歩しているが、これはブログを始める以前のことで、ブログ記事が存在しないので、記憶を探るしかないのであるが、飯盛山で白虎隊をテーマにした詩吟のカセットレコーダーを大音量にして、剣舞を舞っていた人の姿を目撃したこととか、さざえ堂という不思議な構造の建物を見学したことが印象に残っている。 また、東山温泉では、浴衣姿に旅館の下駄という格好で夕食までの時間潰しに散歩に出て、温泉街の中の羽黒山神社とある石階段を登り始めたものの、延々とそれは続き、石段の区切りごとに石標が設置されている。九丁と記された石標であったか、9番目のそれを見届けたところでギブアップ、下駄履きでは無理と諦めてとって返したことなどを思い出す。 さて、今回は小雨降るお天気であったので、銀輪散歩は諦め、駅前からバスで個展会場に向かうこととする。駅前で昼食を済ませて、観光案内所で個展会場の鈴善漆器店へはどう行けばいいのか尋ねると、丁度よいバスがあると教えていただいたのが「ハイカラさん」という市内循環バス。バスに乗り込むと直ぐに発車。二つ目のバス停「大町二之町」で下車。 バス停の先の角を左に入って進むと、「←山内ヨネの家」と書かれた表示板が目に入る。 (野口英世の初恋の女性、山内ヨネの家跡) 後刻、野口英世青春通りの道路脇に掲示されていた案内板によって、山内ヨネがいかなる人物であるかを知ることになるのだが、この時は気にもとめず通り過ぎたのでありました。 若き日の野口英世は彼女に熱を上げていたようだが、それは片思いで、彼女にとっては野口の気持ちや行動はむしろ迷惑なものと感じていたようであります。 それはともかく、野口英世の初恋の女性の実家跡だと知ったので、再び立ち戻って撮影したのが上掲の写真であります。 個展を見た後、道路向かいの喫茶店・焙煎屋珈琲店で珈琲休憩。 雨も小止みになったので、付近を少し歩いてみることに。 と言っても地理不案内の町。何と言うあてもなく歩いていて出くわしたのが清水屋旅館跡という石碑。 (清水屋旅館跡) (同上・説明碑) 吉田松陰や土方歳三、新島襄夫妻などが投宿したこともある木造三階建ての旅館であったとのことですが、今は取り壊されて存在せず、跡地は大東銀行の店舗ビルとなっている。 道路向かいが白木屋とあるレトロな雰囲気の白木屋漆器店の建物。 (白木屋・漆器陳列館) この通りを東へと進み、「昭和なつかし館」を過ぎたところで、「野口英世青春通り」と表示された通りに出た。これを右折して南へ。 (野口英世青春通り) (同上・説明碑) この説明碑の前に来て、通りの名の由来を知ると共に、山内ヨネという女性が野口英世の初恋の相手であるということを初めて知ったのでした。 彼が山内ヨネと知り合ったのは若松栄町のキリスト教会であったとのことである。 <参考>野口英世・Wikipedia 日本基督教団若松栄町教会・Wikipedia 野口英世というと、JR猪苗代駅前に「野口英世三体像」というのがあったことを記憶しているが、野口英世は福島県耶麻郡三ツ和村(現、猪苗代町)の生まれ(1876年11月6日)。 <参考>裏磐梯銀輪散歩<1> 新潟から猪苗代まで 2012.9.28. 彼は1歳の時に囲炉裏に落ち左手を大火傷する。火傷の所為で左手指が動かなくなってしまうのであるが、猪苗代高等小学校在学の頃、左手の不自由を嘆いた彼の作文が、教師や同級生の同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用捻出のための募金が行われ、アメリカ帰りの医師・渡辺鼎の下で手術を受け、不自由ながらも左手指が使えるようになる(1892年10月)。彼自身が医師を目指すようになったのは、この手術の成功に感激したからだという。 (野口英世博士と旧会陽医院)<参考>會津壱番館・Wikipedia その渡辺鼎が経営していたのがこの会陽医院で、野口英世は、1893年3月猪苗代高等小学校卒業後、この会陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半医学の基礎を学ぶこととなる。 火傷と言えば、ヤカモチも2歳か3歳の頃、両足を火鉢に突っ込んでしまい、火傷を負ったことがある。椅子に腰かけ、火鉢のへりに足をのせて暖を取っていたのだろうと思うが、椅子から滑り落ちて足を火鉢に突っ込んでしまったという次第。勿論、当時の記憶はなく大きくなった後に両親から聞かされて形成された記憶であるから、他人事のような実感のない記憶である。 しかし、足指に火傷の痕跡が残っているから、事実であるのだろう。この火傷の治療のため足指を固定され、よちよち歩きの大切な時期に、一定期間歩行が制限されたことで、足指が不器用にしか動かないことになってしまったのではないかと思っているが、足指ジャンケンができない程度で、歩行その他で不自由を感じるようなことはなかったのは幸いでありました。 ということで、ヤカモチには医師を目指すキッカケがなかったという次第であります(笑)。 ところで、現在の千円札の肖像は、野口英世。 しかし、この7月3日からは新紙幣となり、北里柴三郎の肖像に切り換わることになるので、千円札の顔としての野口英世を目にするのももう暫く限りということになるのでしょうな。 (千円札の野口英世・Wikipedia掲載写真から転載) 大町四ツ角札ノ辻の碑の背後に見えるのは、「会津出身の版画家 斎藤清作品他 常設開催中」の文字。 (會津商人司簗田家屋敷跡・大町四ッ角旧札ノ辻碑) 昨年11月に会津柳津を散策した折に道の駅柳津に斎藤清美術館があったことなども思い出す。 <参考>斎藤清美術館の写真が掲載されている当ブログの記事 会津柳津散策(中) 2023.11.15. 野口英世青春通りから国道118号に出て、これを北上。 (ナズナ?) こんなナズナは初めて目にする。国道118号の歩道に植えられていたものだが、何やらお洒落な園芸植物のようにも見える。 これはいったいナニな? (追記:注2024.6.29.)友人小万知さんからのご教示ですが、これはマメグンバイナズナという北米原産の帰化植物でありました。 <参考>マメグンバイナズナ・Wikipedia そして、タチアオイの花。 (タチアオイ) タチアオイの花をよく目にすると思ったら、この花は会津若松市の市花であったのでした。 たまたま、目に止まった高厳寺というお寺で小休止。 上掲の「カワチ」という看板の店の右(東側)に隣接してある寺です。 (浄土宗・高厳寺) <参考>高厳寺・浄土宗大辞典 高厳寺・蘆名盛高・蒲生忠郷の菩提所 (同上・本堂) 大町中央公園を通り抜け、更に北上し、ホテルにチェックイン。 ホテルの部屋の窓から南方向を望むと、鶴ヶ城が見えていました。 (鶴ヶ城遠望) 夕食に出掛けるついでに近くをブラブラ歩き。 その折に通りかかった、お菓子の蔵太郎庵というお店の前にあったのが、おけいの像。 (おけいの像) (同上・説明副碑)<参考>お菓子の蔵太郎庵会津総本店 駅前方向に引き返し、何やら見覚えがあるような、ないような公園があったので立ち寄りましたが、それは以前(2011年4月)こちらにやって来た際に、新潟へと帰る高速バスの時間待ちに使った公園でありました。 (大町白虎公園の石佛供養碑) 前回は気が付かなかった石佛供養碑がありました。 夕食を済ませてホテルに戻り、一夜明けての翌日はご覧のような好天気であります。しかし、朝10時発のバスで新潟に戻らなくてはならないので、市内銀輪散歩をする余裕はありません。残念。 (会津若松駅) <参考>銀輪万葉・その他篇 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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