■義経黄金伝説■第57回
ホームページランキングネット ――――――― ■義経黄金伝説■第57回(60回完結予定) ――――――――――――――――――――――――――― (C)飛鳥京香・山田企画事務所 http://www.poporo.ne.jp/~manga/ 研究室http://plaza.rakuten.co.jp/yamadahakase/――――――― 第9章 1198年(建久9年) 鎌倉 ■6 1199年(建久10年)鎌倉文覚は、対決の後、しばらくして、広元屋敷の元を訪れている。文覚の頭は朱に染まっている。足取りもおぼつかぬ。鬼一の打撃の後がゆっくりと文覚の体をむしばんでいる。鬼一の八角棒には、やはり丹毒が塗られていた。「大江殿、鬼一方眼はあやめた、これで、あやつかの王国、勢いがなくなろう」文覚は、大江に満足げに言った。「さようか。それは重畳。が、いかがなされた。その傷は」「我のことなぞ、どうでもよい。よいか、広元、義行を逃がせ」「源義行を…、何を言う。気が狂られたか」「よいか、大江広元。私、文覚は、元は武士である。鬼一との約束は守らねばならぬ」 文覚は息も絶え絶えに言うのである。「皆の者、出て参れ。文覚殿、乱心ぞ」大江広元は、屋敷の郎党を呼び寄せる。「くそっ、広元、貴様」 手負いの熊のように文覚は、広元の手の者と打ち合うが、多勢に無勢。おまけにひん死の状態の文覚は打ち取られる。「残念、無念。清盛、西行、お前らが元へ行くぞ」とらえられ、牢につれていかれる文覚がいまわの際に叫んだ。◎文覚は,今は亡き好敵手西行の最期を、思い起こしていた。待賢門院璋子(けんれいもんいんたまこ)は、西行の手を強く握りしめている。待賢門院璋子は後白河法皇の母君である。その臨終の席に西行が呼び寄せられていた。「二人の皇子をお守り下され。西行殿。私の最後の願いでございます」「わかりました、璋子様、この西行の命に変えても」西行は宮廷愛の達人でもあった。この時期日本は宮廷愛の時期である。待賢門院璋子の二人の子供とは、崇徳上皇と後白河上皇である。璋子は鳥羽天皇の間に後白河法皇を生み、鳥羽上皇の祖父である白河法王の間に崇徳上皇をうんだ。白河法皇は璋子にとり愛人であり、義理父であった。いわゆる源平の争いは、璋子を中心にした兄弟けんかから起こった。西行は璋子のために終生、2人の御子を守り事を誓ったのだ。西行は璋子のために、京都朝廷のしくみを守りために、その生涯を捧げた。西行と文覚は、若き頃、恋いにそまりし王家を守る2人の騎士であった。それでは、文覚は、日本の何を守ったのか。自問している。文覚は若き折り、崇徳上皇の騎士であった。上西院の北面の武士である。が、文覚は保元の乱の折り逃げ出している。その折りの事を西行はよく知っているのだ、言葉で攻めていたのだ。西行はいまはのきはに、叫んでいた言葉を思い起こす。「文覚殿よ、天下は源氏におちたと、、思うなよ」「何じゃと」「頼朝殿の義父、北条、平時政殿の手におちるかもしれんな」西行の死に臨んでの予言であった。いにしえ、坂東の新皇と自ら名乗った、平将門(まさかど)の乱平定に力があったのは、藤原秀郷と平員盛である。藤原秀郷の子孫は、奥州藤原氏、西行の家などである。平員盛の子孫が、伊勢平氏と北条氏であった。(続く)(C)飛鳥京香・山田企画事務所 http://www.poporo.ne.jp/~manga/ 研究室ttp://plaza.rakuten.co.jp/yamadahakase/