短編 『電車男に魅せられて』
「電車男」・・・アキバ系と呼ばれるオタクの男が、電車内で酔っぱらいに絡まれる通称エルメスという女性を助けたことで始まるラブストーリーだ。電車男は、幾多の苦難を乗り越えエルメスと結ばれる。今や知らぬ者などいないだろうとまで言われる有名な物語である。そんな電車男に魅せられたひとりの男がいた。彼は恋に臆病だった。好きな女性が出来ても、自分では彼女に釣り合わないと自らを卑下し、気持ちを封印してきた。彼は身の程を知っていたし、想いを伝えたところで結果も分かっていた。だから、これまでずっと恋をしても「いい人」を止まりだった。何より傷つくのが怖かったのだ。しかし、電車男がエルメスを心から想い、何度挫けても変わろうとする姿を目の当たりにし、彼の中で何かが変わった。そう。彼はいつしか電車男と自分を重ね合わせるようになっていた。ちょうどそんな頃だった。彼と彼女が出会ったのは。彼は彼女の眩しいくらいの笑顔に惹かれ、瞬く間に恋に落ちた。寝ても覚めても浮かぶのは彼女のことばかり。彼の胸は急速に高鳴った。一方で、そんな自分の気持ちに彼は戸惑っていた。もう何年も恋をしていなかったせいだろうか。従来の臆病な性格も災いして、何一つ踏み出せないでいたのだ。だから、今度もまた「いい人」で終わろうとしていた。このままでいい・・・そう自分に言い聞かせて。しかし、彼は自分と重ね合わせていた電車男のことを思い出した。電車男は、何度も挫けながらもその度に起きあがり、結果を恐れず前に進んでいた。自分を変えようとしていたのだ。いつしか彼は電車男のように自分も変わりたいと願うようになっていた。傷ついても、出来ることを精一杯やって正面から向き合っていける勇気を持った男になりたいと。彼は決めた。自分も電車男になってみせると。電車男はエルメスと結ばれた。しかし、結果が重要なのではない。自分がどれだけやったのかという過程こそが大事なのだと悟ったのだ。だからこそ、彼は自分が電車男になることを選んだ。彼は彼女を呼び出すと、ありったけの想いを伝えた。うまく言葉にならなかったかもしれない。何を話したか分からないくらい緊張していた。それでも、時間をかけて彼は全ての想いを伝えきった。どれくらいの時間が流れただろう。ほんの数分が1時間にも2時間にも感じられた。やがて彼女は静かに呟く。たった一言、『ごめんなさい』と。結局、彼女からの答えはNoだった。当然、彼は落ち込んだ。しかし、心の何処かでは納得しているかのようだった。何故なら、彼女には他に好きな人がいることを知っていたから。それでも、彼は自分の気持ちを伝えたかった。叶わないと知っていても、想いを知って欲しかった。こんな自分でも変われると信じたかったから。端から見れば自己満足だと言われるかもしれない。そんなことをされても彼女が困るだけだと。そうかもしれない。それでもいいと彼は思った。彼女と付き合えなかったことは確かに胸が痛む事実ではあったけれど、今まで恋に臆病で向かっていくことが出来なかった自分と決別する一歩でもあったのだから。電車男に魅せられた男の恋は、こうして終わりを告げた。けれど、電車男から貰った勇気を忘れることはないだろう。男は壁を1つ乗り越えたのだ。