浅草寺にて参る
この間、ちょっとした所用もあって、浅草に赴いた。休日と言う事もあり、雷門から浅草寺へ続く仲見世通りは人、人、人。 その中でも面白かったのが、外国人と日本人の若者二人組みがやたらと目に付いた事だ。おそらく、国際交流の一環として、どこかの学校ないしは施設が催した企画なのだろうけれど、たどたどしい英語を話す彼ら彼女らの会話を耳にしつつ、にやにやとしながら雑踏をのろのろ進んだ。後ろにいた彼らの言葉が聞こえてくる。「うぇあ、あーゆー、ごー...えーと、あらうんどー、ジャパン?」「oh,yes.nantara-kantara」「おー。あー、どぅーゆーらいくー、スモウ?」なにその質問の飛び方。そんな外国人いるか?日本人だって、若者で相撲好きな人を捜すのは、悲しい話だが困難だろうに。実に、健全で良い。英語は、分からんよなぁ。何を隠そう、私も英語はからきしで、高校生自分に赤点をこれでもかと取っていたものだ。そんな思い出に浸りつつも、観音堂に参る。浅草寺周辺は工事中なので、多少雑多な印象がある。いずれは池が出来るのであろう、ちょっとへこんだ窪地が見受けられた。しかし、震災や戦災で建造物の多くが失われ、戦後に復興したという事もあってか、あるいは手入れが行き届いているからか、曇り空に朱が映え、実に艶やかな印象だった。 視界の向こうに、ひっそりと涼しげな佇まいをしている弁天堂があったので、そこへ行こうとした時に、声を掛けられた。「Can you speak English?」インド系の男性二人組みである。私は答えた。「おう。ノーノー、そーりー」向こうからすれば、「てめえ英語喋ってるしこっちの言葉理解してんじゃねえかよ、ファッキンジャップ」といった所だろう。むろんそんなことを言われたものなら、「ファッキンジャップくらい分かるよバカヤロウ!」とビキビキな返事を返すつもりであったが、彼らは勿論そんなことは言わない。だから、事もあろうに私は、へらへらと笑いながら「のーのー」などと言ったのだ。彼らの横を通り過ぎた後、私は激しく後悔し、自分を叱責した。「なにをやってるんだ、俺は!」断るなら毅然と断ればよい。にやつく理由など。誰に媚を売っているのか!私は本当に頭を抱えた。まったく、慙愧に堪えない。自分と言う人間が、久しぶりに嫌いになった瞬間であった。 そんな落ち込んだ精神状態だったからか、雑踏から少し外れた浅草寺横にある弁天堂の静けさが妙に心地よく、荘厳な面持ちを醸し出している鐘楼をしばらく眺めた。松尾芭蕉が残したという句が実に明瞭で小気味良く、何だかささくれ立った心が洗われる様だった。 花の雲 鐘は上野か 浅草か 拙劣ながら返歌を。曇り空 鳴らぬ鐘こそ 常ならん 記:野間(弁天が老女弁天だからといって、がっかりなどしていない)大資