池田可軒 捌・ふらんすお政 其ノ壱
文久3年(1863年)に27歳にして遣欧使節団の正使を務め、スフィンクスの前で記念撮影したイケメン侍として知られる池田可軒(長發)さん。 昭和8年(1933年)に汎文社から出版された村松梢風著「ふらんすお政」には、その可軒さんがちらっと登場する。 この小説は東京・大阪朝日新聞に掲載されていたものだそうで、渡辺邦男監督によって映画にもなっているらしい。(日活HP参照) 「ふらんすお政」は羅紗緬(らしゃめん)のお政の物語で、羅紗緬とは幕末から明治にかけて日本在住の西洋人を相手に取っていた洋妾に対する蔑称であった。 幕府の大目付を務める3,500石の旗本・土岐丹波守の妾であるお政が、芝居帰りに異国人の暗殺現場を通り掛かるところから物語が始まる。殺されていたのは駐日米国総領事館の通訳・ヒュースケン(Henry Heusken。万延元年(1861年)1月14日に攘夷派の薩摩藩士に腹部を深く斬られて絶命)だった。翌日、丹波守に役者買いがバレたお政は納屋に閉じ込められるも何とか逃げ出し、尊王倒幕派の浪人・間宮 一に助けられる。間宮はヒュースケンを斬った犯人であった。お政は盗賊の八左衛門に預けられるが、(八左衛門に)捕手が来た際に自分を捕まえに来たと勘違いして逃げ出し、知人の伝手で横浜に辿り着いた。 横浜に滞在していた仏国人・モンブラン伯爵(Count Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc, Baron d'Ingelmunster)は美人で教養のある羅紗緬を探してくるよう頼んでいたが、毎日フラフラしているお政に目を付けた蓬莱屋の主人が彼女に声を掛け、お政はモンブランの羅紗緬となった。モンブランと共に生活しているうちに日本髪をやめ、大胆な風俗を取り入れたお政は人々から “ふらんすお政” と呼ばれるように。 そんなある日、モンブランは外国奉行の池田筑後守(可軒さん)を自宅に招待した。モンブランは幕府と仏国の間に同盟を締結し、仏国の援助で陸海軍の拡張を図って軍備が整った暁には、国内を統一して新文明国を建設する計画を立てていたのだ。 池田筑後守は5,000石の旗本だったが、ほぼ大名の格式があった。しかし今日は微行だから別段供揃は立てず、外国方の役人・通役等を2、3名つれてやって来たに過ぎなかった。彼は大官らしく極めて鷹揚に、しかし如才なく振舞った。女達に対しては特別の注意を払っている風が見えた。就中(なかんずく)お政に対しては、外国の貴婦人に対するように礼儀正しかった。食堂に案内したお政は主賓筑後守を正席に着かせ、自分がその隣に腰掛けた。 食卓では様々な話題が出て、筑後守はモンブランに向かって仏国の郡県制度の状態について質問した。モンブランは常々、日本は諸侯を廃して郡県制度を実行しなければ到底平和は望み得られない、それにはまず薩長二藩を滅ぼし、然る後諸侯を廃する他ないと主張しているからだった。 モンブランが仏国の州郡制度の歴史と現状を詳しく話したところで、「徳川幕府の力で薩長を滅ぼすことが出来るかどうか」ということが問題になった。筑後守はそれは自信がないと正直に答えた。そこで今度は英国対島津(薩摩藩)の関係が話題に上り、モンブランは先頃幕府の老中3名と英公使ニール(John Neale)、東洋艦隊司令官クーパー(Augustus Leopold Kuper)が生麦事件の解決交渉について会見密議したときの内容を話した。 話が終わって、筑後守はお政に向かって言った。「わしは2、3日前、丹波守殿に会いましたよ」 お政はニッコリ笑って「あの方は、何と仰っていらっしゃいました?」「どうも、そなたのことが未だに忘れられぬらしい口振りでした、はっはっは」 と筑後守は笑った。お政も相手の顔を見て「ホホホホ…」 と笑った。お政は丹波守のことを言い出されても何とも感じなかったが、筑後守が来る前に受け取っていた間宮からの手紙の方は、思い出すと彼女の胸を騒がせるのであった。 ここまでが全体の約半分なので、一旦ここで休憩。 作中の可軒さんはこの頃20代半ばなのだが、一人称が “わし” なのね。まぁ当時の男性の一人称についてはよく知らないけど。江戸で生まれ育った可軒さんには関係ないが、彼の知行地であった井原がある岡山県では、子供でも結構自分のことを “わし” と言っていた。岡山出身の千鳥・大悟さんも “わし” を使っているし、だんなさんもそうだ。だが息子達は幼い頃から “俺” だったので、今時はもうおじさんしか使ってないのかも。