テーマ:詩歌(48)
カテゴリ:詩
達治の経歴をウィキペディアで調べました。明治33年(1900年)大阪市で生まれましたが、決して恵まれた家に生まれたわけでなく、家は市内を転々としたそうです。驚くべきことは体が弱く小学校を休みがちだったので、図書館に通い徳富蘆花、夏目漱石、高山樗牛などを耽読したということです。漱石はともかく、蘆花も樗牛も文語体で小説を書いていたでしょうから、小学生の頃から文語体の文が読めたということです。 そして大阪府立の中学校に入学しましたが、「しかし学費が続かず、2年で中退。大阪陸軍地方幼年学校を経て陸軍中央幼年学校本科に入学。1920年陸軍士官学校に入学するも翌年、北海道までに及ぶ大脱走をし退校処分となった。このころ家業が破産、父親は失踪し、以後大学を出るまで学資は叔母の藤井氏が出してくれた。」とウィキペディアにあります。 ここでも驚くことは、幼年学校、幼年学校本科、陸軍士官学校と進んだにも関わらず、その学校がイヤでイヤでたまらず、大阪から北海道まで大脱走をしたということです。これが後に詩『鴉』に影響を及ぼしています。 ウィキペディアによりますと、「 第三高等学校卒業後、東京帝国大学文学部仏文科に入学。大学在学中に梶井基次郎らとともに同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。シャルル・ボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』の全訳を手がけた(昭和4年)後、処女詩集『測量船』を刊行(昭和5年)。叙情的な作風で人気を博す。」とあります。 帝大仏文科在学中に梶井基次郎や萩原朔太郎と親交を交え、影響を受けたと思われます。シャルル・ボードレールの「巴里の憂鬱」の全訳を出版したことも初めて知りました。その翌年昭和5年に処女出版の『測量船』を出版したそうです。「人気を博す。」とありますが、当時は今よりもずっと詩が売れていた、読まれていた時代だったのでしょう。 「十数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、随筆集『路傍の花』『月の十日』などがある。また中国文学者吉川幸次郎との共著『新唐詩選』(岩波新書青版)は半世紀を越え、絶えず重版されている。」(ウィキペディア) ここでまた驚きました。あの有名な『新唐詩選』も吉川幸次郎氏とともに三好達治が書いていたとは・・・。李白や陶淵明、杜甫などの詩が日本語訳してあり、若い時、読みふけったものでした。 つづく・・・
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