テーマ:政治について(20118)
カテゴリ:世界を見る切り口
NHKの日曜討論で、「道徳科」をちゃんと「教科」として位置づけることが論題にのぼってきたことを知った。
生徒さんたちの道徳科の“成績”をどうつけるかが政治の悩みどころになっているらしい。 もうちょっとドライに考えられないものか。 道徳科で教えるべきポイントは3つだと思うのだ。 (1)ものごとを論ずるとき、ダブル・スタンダードは悪である。 (2)現代社会のもろもろの生活ルール、生活の知恵。 (3)国際儀礼。 (1)をしっかり身につければ、たとえば わが政府による朝鮮統治をあげつらう一方で これと比較にならぬほど苛烈な北京政権のチベット支配には大甘(おおあま)ないし沈黙、 といった連中が、そもそも徳に欠けることがおのずと明らかになってくる。 世の中の、やれ「左」だ、やれ「右」だ、といった議論がおどろくほどすっきり整理されるだろう。 (わたしは、「左」だ「右」だというのは意味がないと思っている。 ダブル・スタンダードをどこまで排除しているかが「賢」と「愚」の基準。それだけ。) 「論理貫徹」というセンスが身についているかどうか、というのは点数化できると思う。 卑怯を排除する論法が身についているか、と言いなおしてもいい。 「健全な心を養う」といったとらえかたをせず、「健全な論法を身につける」科目だと割り切ってはどうか。 (2)は、たとえば 油べったりの鍋や皿をいきなり水で流さず、油をさきに新聞紙でふきとるほうが環境にやさしい; それはなぜか? とか 劇場をはじめ公共の場で咳やくしゃみをするときは、ハンカチで口を覆おう とか。 要すれば、運転免許をとるときの試験項目みたいなものだ。 これを少なくとも知識として知っているかというのは、点数化できる。 実践しているかどうかまで道徳科で点数化できるわけがないし、点数化を試みる必要もない。 学校の「成績表」なぞ、しょせんそのていどのものだ。 (3)は、(1)と(2)の交差点上にある。 (たとえば国旗・国歌の尊重の念など) これが欠けている論者が、道徳科のなかみを論じる最前線にいるから、 ときにツカレる。 まぁ、そういう世の中だから、ぼくなどもこうして文章を書くエネルギーがわいてくるわけだけどね。 社会常識科目としての「道徳科」が存在しないことを前提に各科目の教科書が作られていくから、 「国語科」は、 日本語の語学力を身につけるという本来の目的からそれて、 やたらと 「この文章から、主人公の感情を読み取ろう。主人公の思いについていっしょに考えてみよう」 みたいな展開が多い。 生活の知恵についての教育は 小学4年までの「社会科」に託されているようだ。 ところが小学5年以上になると 社会科はやおら地理・歴史の知識科目となるので、 小学校高学年以上の生徒たちに社会常識をおしえる場が、こつぜんと消える。 その辺が問題なのだ。 どういうかたち、どういう科目構成でおしえるかにはこだわらない。 学校教育において学年ごとに、上にあげた(1)、(2)、(3)をどう盛り込んでゆくか、という視点で議論を進めるべきだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
May 8, 2007 08:08:31 AM
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