テーマ:政治について(20117)
カテゴリ:世界を見る切り口
集団的自衛権の「憲法解釈の変更」という長年のネーミングは、自縄自縛を引き起こすように思えてならない。
「憲法運用枠組みの変更」という言い方をしたほうがいいのではないか。 「フレームワーク替(が)え」と言ってもよい。 「パラダイムの転換」と言ってもよい。 なんでもかんでも「憲法解釈」という言い方をしていると、 たとえば 「ピタゴラスの定理は合憲か違憲か? 憲法解釈や、いかに」 と設問されても 「憲法第23条の≪学問の自由は、これを保障する。≫にもとづき合憲である」 などという筋違いのやりとりが成立しかねない。 ほんとは、 「ピタゴラスの定理について憲法は何も言っていない。 そもそも憲法解釈の問題ではない」 というのが正しい。 「日本国憲法によって日本国は“独立国”であると解釈されるか?」 という問いだって同じだ。 「憲法解釈」を問われて、 “独立国”派は 憲法前文に≪自国の主権≫が謳われているし、第1条に天皇の地位について定めてあるから独立国と「憲法解釈」される、 というのかもしれないし; “植民地”派は そもそも憲法が施行されたとき日本は独立国ではなく、その経緯が第9条に明確に反映されているから、独立国ではないと「憲法解釈」される、 というのかもしれないが; いや、違う。 日本国憲法は沈黙している、というのが正解だ。 憲法を「解釈」しても何も出てこない。 「憲法運用の枠組み」が、昭和27年4月28日に変わった、というだけである。 (この日に講和条約が発効し、日本はふたたび独立国になった。) だから、憲法学者の責務は 「集団的自衛権について憲法が何かを語っているか?」 という問いにこたえることだ。 憲法は何も語っていないのだ。 それを言うことでもって、憲法学者の領域はおわる。 あとは国際政治を冷徹にみつめる能力のある者らが 「憲法運用の枠組み」 について議論するのだ。 そういう整理を、まずしょっぱなにやるべきではないのかね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
May 22, 2007 08:08:25 AM
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