テーマ:読書(8594)
カテゴリ:世界を見る切り口
これだけ的外れのトルコ諜報部員やトルコ外交官、トルコ公安らに悩まされ、いい加減を絵に描いたようなクルド青年らに幻滅しながらもなお、トルコ語とトルコの少数言語に並々ならぬ愛情を注ぎ続けることのできる心の大きさに、ほとほと頭が下がる。
わたしなら、とうに癇癪を起してトルコと縁を切っているところであるが。 とんでもない人たちの仕打ちを補って余りある、トルコ人とのプラス体験が数多くあったからだろう。トルコが、挑戦心や義侠心を刺激してやまない国なのだろう。 小島剛一著 『漂流するトルコ』 (旅行人、平成22年刊) 小島剛一さんはトルコ語の Cinli(チンリ)を「漢人」と訳して、 ≪「お国はどちら? 日本人? 漢人?」 「日本人です」≫ と、バス内の隣席の人とのやりとりを記録している。 小島さんの解説によると ≪「Cinli チンリ」の1語が、時代と国籍の如何にかかわらず「唐人、もろこしびと、漢人、漢族、支那人、シナ人、中国人、華僑、華人、チャイニーズ」などのすべてに相当する。中華人民共和国の住民であってもウイグル人やチベット人は「チンリ」ではない。≫ (209頁、脚注) だそうである。ぼくが意識的に使っている「漢人」という語を小島さんもさらっと使っていたので、うれしかった。 言語の習得において、異なる言語をチャンポンにするのはタブーだということを示す例の紹介も興味深い。言語というのは、1個の完結したシステムとして脳内に移設・増殖されなければならないということ。 ≪ドイツに移民したトルコ人の2世代目に「トルコ語もドイツ語も満足に話せず、自由に思考し話せる言語がない」悲劇的なケースが多数ある。 学校教育では必然的に落ちこぼれになり、就職も結婚も至難のことになる。 トルコ人移民どうしでしか交際のない環境で、親をはじめとする大人たちがさまざまな段階のドイツ語交じりのトルコ語を話し、子供に両言語をきちんと区別して話すしつけをしなかったため、子供はドイツ語能力もトルコ語能力も十分に獲得することができなかったのである。 周りの大人が場面によって言語をはっきり使い分け、子供にも使い分けさせるように教育している家庭では何の問題も起こらないのだが。≫ (240頁、脚注) トルコで全国民に姓をつけさせることが決まったのは、昭和9年6月21日の法令によってで、だからトルコ人どうし姓で呼び合うのは非常に不自然でよそよそしいことになる。 トルコ同化政策の一環として、姓はトルコ語でなければならないということも定められた。 (260頁、脚注) クルド人の共通語としてのクルド語が存在しないこともビックリだった。 ≪トルコのクルド人の共通語はトルコ語です。イラクのクルド人の共通語はアラブ語です。イランのクルド人の共通語はペルシャ語です。≫ (53頁) ≪現存する「クルド標準語」は実はほとんど誰にも分らない人工語ですから、そのままでは学校教育には使えません。クルド語の諸方言は互いに全く通じないほど差異が大きいから、各県各郡の人材を使ってそれぞれの方言で書かせなければ、子供やその親が無理なく理解できる教科書としての使い道はないのです。≫ (161頁) * 旅行者としての外国人、とくに日本人に対するトルコ人の人なつこい親切さについてはそこここで読まされてきた。 しかしあの地政学上の交差点の地に「人がいい」だけでもって帝国を張れるはずがない。 国を張る民族のこわ~い部分、そしておそらくこのていどが地球平均のスタンダードなんだろうなぁと諦めの気持ちにさせられる「いい加減」な部分を、これでもかと読まされるのが本書である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Aug 3, 2014 06:34:43 PM
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