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カテゴリ:知の構造、地の構造
いきなり引用↓以下。
------------------------------------------- その反対に、純正オリジナル、出来たてほやほやの無垢の「私の意見」は、たいていの場合、同じ話がぐるぐる循環し、前後は矛盾し、主語が途中から変わるような、「話している本人も、自分が何を言っているのかよく分かっていない」ような困った文章になります。こういう意見におとなしく耳を傾けてくれる聴衆はなかなかいません。いきおい、私たちは、コミュニケーションの現場では、起承転結の結構を承知している「ストックフレーズ」を繰り返すことになりがちです。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 …自分が何を言っているのかよく分からない文章ってのは、まさにようちゃん2号。 でもね、なんかストックフレーズを使うのには抵抗がある。 んで、よく分からないまま、だったり、引用が多くなるのかな? 以下↓引用。 ------------------------------------------- ですから、「私が語っているときに私の中で語っているもの」は、まずそのかなりの部分が「他人のことば」だとみなして大過ありません。(現に、私は確信を込めてこう断言していますが、そんなことができるのは、私がいま「ラカンの意見」を受け売りしているからです。) 「私が語る」とき、そのことばは国語の規則に縛られ、語彙に規定されているばかりか、そもそも「語られている内容」さえその大半は他人からのことば、ということになると、「私が語る」という言い方さえ気恥ずかしくなってきます。私が語っているとき、そこで語られていることの「起源」はほとんどが「私の外部」にあるのですから。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 なんだか気恥ずかしい、ってのはある。 気恥ずかしさを感じない人もいる感じ…。 以下↓引用。 ------------------------------------------- さきほど、「私のアイデンティティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られる、と書きましたが、ご覧の通り、「私が語ったことば」さえ、それを構成するファクターの多くが「外部から到来したもの」です。だとすると、そのときの「私のアイデンティティ」というのはいったい何なのでしょう? ところが、このどうにも足元のおぼつかない「私のアイデンティティ」や「自分の心の中にある思い」を、西洋の世界は、久しく「自我」とか「コギト」とか「意識」とか名づけて、それを世界経験の中心に据えてきました。すべては「私」という主体を中心に回っており、経験とは「私」が外部に出かけて、いろいろなデータを取り集めることであり、表現とは「私」が自分の中に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出することである、と。 このような考え方は私たちの中にまだ根強く残っていますが、(後略) ------------------------------------------- 以上↑引用。 私のアイデンティティって、一度強く持ってみる時期が必要なのかもしれない。 そしてそこからもう一度、自身で解体する必要があるような気がする。 (勘だけ) ところが、それをつかんだら手放さ(せ)ないっていうベクトルがいろいろ働いているかな?って思う。 それについては以下↓引用。 ------------------------------------------- 「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考えをフーコーは「人間主義」(humanisme)と呼びます。(これは「自己中心主義」の一種です。) 「人間主義」とは、言い換えれば、「いま・ここ・私」主義ということです。「いま・ここ・私」を最も根源的な思考の原点と見なして、そこにどっしりと腰を据えて、その視座から万象を眺め、理解し、判断する知の構えをフーコーは「人間主義」と呼んだのです。この人間主義的歴史観によれば、歴史は次々と「よりよいもの」、「より真実なもの」が連続的に顕現してくるプロセスとして理解されます。(だって、「いま・ここ・私」がすべての基準なのですから、それが最高到達点であることは自明の前提です。) ------------------------------------------- 以上↑引用。 「人間主義」って、ある新聞社がラジオCMでやっていなかったっけ? (まだ、やっているかな?) 以下↓引用。 ------------------------------------------- フーコーはこの人間主義的な進歩史観に異を唱えます。 (中略) 「歴史の直線的推移」というのは幻想です。 というのは、現実の一部だけをとらえ、それ以外の可能性から組織的に目を逸らさない限り、歴史を貫く「線」というようなものは見えてこないからです。選び取られたただ一つの「線」だけを残して、そこからはずれる出来事や、それにまつろわない歴史的事実を視野から排除し、切り捨てる目にだけ「歴史を貫く一筋の線」が見えるのです。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 組織的に目を逸らせるために、「人間主義」ってのがある感じがする。 「歴史を知れ」っていう人が多いように思うけれど、そう言う本人がどの意味で使っているか、わかっていって感じをようちゃん2号は持つんだな。 ストックフレーズっていうやつ。 うーむ、やっぱりぐるぐるしている…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月14日 09時19分32秒
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