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カテゴリ:知の構造、地の構造
なんでもかでも「鏡像段階」に結びつけているようだけれど、もう少し突っ込みたいのね。
「誰しもが神概念を持っているようなのはなぜか?」ってことがようちゃん2号的には不思議なことだったりしたのだけれど、「鏡像段階」っていうので、なんとなく説明できるような気がしたの。 ようちゃん2号なりに考えたところでは、 『神様を信じる人って、私が「私」であることが「わかっている」あるいは、私が「私」であることを「信じられる」というところを拠りどころに、神様を信じているるっていうことがあるのではないか?』 って思う。 『「この神様を信じれば大丈夫」という確信が信仰のない人を動かす。』っていうようなこと、どの宗教でも指導しているようなことだと思うのだけれど、しょせん、「わかる、わからない」「信じる、信じない」は「私」を反映していて、その「私」の手に入れ方は幼児の頃、鏡を見て…なのだとしたら、ちょっとようちゃん2号的には勘違いに近い。 勘違いとまでは言いすぎかもしれんが、順番が逆だな。 私が「私」を手に入れた手続きというか仕方がそもそも勘違いかもしれないのに(他の方法はないのかもしれんが…)、その「私」の信じるものを根拠にして人に何かを勧めるというおこがましさに気がつけない人が、ようちゃん2号的に気に食わん…ってことみたいだな。 これ、宗教に限ったことではないな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月23日 10時58分39秒
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